東日本大震災から10年ということで、今年の防災推進国民大会は岩手県釜石で開催された。11月初め2か月ぶりに訪れた釜石市唐丹町での復興まちづくりの活動も10年になるということだ。リアス海岸の斜面に育った杉を玉切りし、製材したのち、剣持猛雄棟梁(今年8月に逝去された)の手によって山形県鶴岡で刻んで、建ててもらった潮見第も、もう4年になる。今でも、玄関を入ると杉の香りに包まれる。階段で2階に上がると、靴下だとよく滑る床板の、足裏の柔らかい感触がまた心地よい。
建築はふつう空間を論ずるので、広さやプロポーション、明暗など目の世界である。音環境もけっこう意識されることはあるが、建築で音を論ずることは少ない。近所の工事騒音、モーターの機械音や繰り返し流されるスピーカからの音は、だいたい不快感が募る。建築は静かで十分だ。面白いもので、家の前の車の音はうるさいと思うだけだが、遠くの電車の音は、そんなに不愉快でなかったりする。夕方5時にスピーカから流れる雑音入りの音楽などは、いきなり音の世界を邪魔されたという感じで嫌だが、潮見第で夕方6時に聞こえる盛岩寺の鐘の音は、もう6時かと穏やかに耳に入る。「火の用心」も、人の声が遠くから聞こえたり、近づいたりするのは、不愉快でないが、防災スピーカから毎日聞こえるのは、騒(うる)さいだけだ。
般若心経には、「色即是空」という有名な言葉があって、形あるものはいずれは壊れてなくなるから、こだわるなと教えられるのであるが、建築が本来の建築として十分使われることなく、ただ形を作っては壊しということが繰り返されていることを悲しく思ったりする。浜松町の世界貿易センタービルも、皇居前の東京海上ビルも立派な超高層ビルを壊す必要が本当にあるのだろうかと思う。人間のわがままだ。そういう人間の寿命は延びているのに、建築の寿命が日本ではやたら短い。どうして建築を大切にしないのだろうか。
般若心経はその後に「無眼耳鼻舌身意」とあり「無色声香味触法」と続くのであるが、ふだん生きているということは、色と声の世界だけでなく、香や味や触に心地よさを思えることを嬉しく思うのだ。子どものころ、人の家に遊びに行くと我が家と違った匂いを感じたものだが、最近は都会で匂いを感じるお宅にお目にかからない気がする。さらに昨今のコロナ禍は、悲しいかな目と耳だけの世界に我慢させられているようでもある。
もちろん、食べ物を食するとき、香りに始まり、味も舌触りも総合して旨いと思うものであるし、さらに言えば目で見て味を予感し、噛む音がさらに旨味の効果を増したりする。建築も形や色だけでなく、その中で暮らすときには、音や触感や香りが心地よさの要素として加わっているのだ。
逆にITを駆使した仮想現実とやらは、それこそ目と耳だけの世界。ゴーグルをつけて仮想世界に身を置くのだが、形や色や音だけで、触や香はない。工業製品と自然素材との違いも、少しそれに近い。同じ仮想現実のはずなのに、眠っているときの夢の世界には、香りも触感も豊富なのが面白い。人の脳の不思議さということか。
なんだか行方もなく言葉の上での彷徨っている。建築の世界も設計図の上では、目だけの世界といいながら、実物が時間を経ると、そこに音や肌触りや香りさえも感じられる世界なのだ。言葉を変えると、存在し続けるということで、時間が建築に味をつけているということだ。建築を味わうことと人間の五感とを堂々巡りをしてみた。
(神田順)
日時:2021年12月25日(土)14:00~16:00
会場:オンライン形式 zoom(先着90名)、Youtubeライブ配信
トーク:斎藤公男(A-Forum)
参加申し込み:
https://ws.formzu.net/fgen/S56224667/