斎藤公男
日本におけるRC構造の発展は、明治末期にドイツから帰朝した(1914)佐野利器により始まって以降、内田祥三、内藤多仲などの先駆者によって推進された。そして大正12年の関東大震災を期に日本に定着するわけだが、その当初から耐震型と組み合わさられたラーメン構造―理想的な耐震的構造―としてとらえられてきた。その後の第二次世界大戦(~1945)に至るまでこの路線に沿っての構造工学的研究、例えばラーメンの水平荷重に対する理論や計算法、腰壁や耐震壁の応力分布についての理論や実験は工学研究者の最大関心事であった。気鋭の若手・坪井善勝もそこにいた。こうして世界に誇るべき日本の建築構造学と法体制が築かれたのだ。そして敗戦をむかえる。
ポール・ワイドリンガー。その響きの良い名前とGIカットの颯爽としたエンジニアの横顔が建築学会誌や建築商業誌を飾り、突然の大きな衝撃と波紋が建築界に広がったのは1951年。皇居東公園の脇に出現したアントニン・レーモンド設計による「リーダーズダイジェスト東京支社」である。2階建ての小さな事務所建築ではあるが、あたかも一本足で爪先立つバレリーナのようなデザインとその構造の特異性が論議を呼んだ。いわゆる「リーダイ論争」である。
日本が戦後の混乱期を抜け出した時代、この時の中心的論者は東大の同期で建築研究所にいた竹山謙三郎と坪井善勝。この論争の高まりと建築界へのインパクトは大きかったが、ワイドリンガーもまた自らの処女作には確固たる自信を貫く姿勢を崩すことはなかった。両氏による耐震性欠如の構造批判によって、猛烈にワイドリンガーが反論したのだ。一方、内藤多仲は独自の研究方法で、理論と実測(1952,構造物振動研究会)を通して、この建物の剛性と減衰性を評価した上で、その耐震設計の妥当性を論じている。
「リーダイ論争」の当否はともかく、ここに「構造デザインの夜明け」ともいうべき小さな種が日本の中に芽生えたといえよう。おそらくは坪井自身にとって、構造とデザインの関係、すなわち空間の創造にコミットする構造の在り方を考える契機は「リーダイ」であったろう。当時多くの建築家が感じ取っていたように、新しい建築の計画や造形の創出には構造技術者のサポートが必要という両者の有機的協働の有様を強くイメージしたに違いない。研究者や技術開発者だけでない職能としての「構造家」「構造デザイナー」という未開の地平。そこに続く一本の道が拓かれたのだ。
それからわずか2年後の1953年。奇跡の出会いから生まれた「広島児童図書館」と「愛媛県民館」は坪井・丹下の“協働”を加速させていく。たとえば「静岡・駿府会館(1957)」「大日本インキ志村工場(1957)」「今治市立公会堂(1959)」「世田谷区立公会堂(1959)」。高層建築では「香川県庁舎(1958)」「今治市庁舎(1958)」「倉敷市庁舎(1960、現・倉敷市立美術館)」などがある。その流れは、やがて訪れる挑戦的プロジェクト―「国立代々木競技場(1964)」への序奏曲とでもいえようか。
1950年代の構造デザインの黎明期を特徴づけるものは、海外の建築活動、特に大スパン構造の新しい形式と造形を伝えるメディア(建築雑誌)の広がりであろう。
欧米には戦前から戦後にかけて活躍した建築構造家(Architect Engineer)ともいうべき人々がいた。
戦火で途切れていた「空間構造」の2つの波がおしよせてくる。第一の波は、かつてS.ギ―デオンが「構造芸術(Structural Art)」と称えた1930年代の「サルギナトベル橋(1930、R.マイヤール)」をはじめ、「フィレンツェスタジアム(1932、P.L.ネルヴィ)」、E.トロハによる「アルヘシラスの市場(1933)」や「サルスエラ競馬場(1935)」、ロンドンの「ペンギンプール(1933、O.アラプ)」などがある。第二の波は1950年代のB.フラー、K.ワックスマン、F.キャンデラ、F.オット―らの活躍。F.L.ライトやE.サーリネン、A. マンジャロッティ、O.ニーマイヤー、E.カスティリオーニといった建築家の野心的な構造空間への挑戦にも心惹かれた。
ところで私が日本大学へ入学した1957年。世界の建築界を驚かせた2つの出来事(国際コンペの発表)があった。ひとつは「ブラジリア新都市」。怪鳥コンドルとも飛行機ともイメージされた都市像はL.コスタによって描かれ、後年O.ニーマイヤーによってユニークな建築群がつくられていく。いまひとつは「シドニー・オペラハウス」。無名の建築家J.ウツソンによる鮮やかなフリーハンドのシェル群像は世界を魅了したがその実現性には疑問もつきまとっていた。日本からの応募もあり、その数年前、RCの大スパンドーム「愛媛県民館(1953)」を実現させた坪井善勝も固唾をのんでO.アラプの言動を見守っていたに違いない。「ブラジリア」も「シドニー」の世界遺産登録をはたした。次は「代々木」と誰もが願っていよう。
「シドニー」の基礎工事が始まった1959年、E.トロハによって「国際シェル(空間)構造学会(IASS)」が設立された。幸運なことに後年会長に就任(1986)する坪井善勝もこの会議に出席できたという。日本の構造デザインが世界とつながる2つ目の大きな道がここに拓かれたのだ。そして東京五輪(1964)の招致決定は1958年。この年、東京タワーが完成し、翌1959年6月、長嶋茂雄の天覧試合、サヨナラ本塁打は日本中を興奮させた。
1950年代に胎動していた構造デザインの諸相は1960年代において大きな成長と飛躍をみることになる。特に「国立代々木競技場(1964)」を頂点とする空間構造における建築家と構造家の協働は深まり、エンジニアの志も高まっていく。コンピューターが未だ構造計算の本格的Toolとして登場する以前の約10年間のプロジェクトの数々は、すでに失われたものも含め、その輝きは今も鮮烈である。大いなる熱量をこめた構造空間を解剖し、そこにこめられた「構想と建設の物語」を考えることは、現在にも、そして未来にもつながるメッセージを見出せるかもしれない。
今回は最適化をテーマに最先端のお話を京大の大崎純先生にお願いし、前座として和田が撓みに注目した最適化のお話をする。
1.撓みに注目した最適化
鉄骨構造の設計では、「1」にディテール、「2」に撓み、「3、4」がなくて「5」に応力と言われる。A-Forumのフレンドの皆様は鉄骨のディテールには自信があると思う。「5」の応力、要するに壊れないための設計はパソコンを使いながら間違いなく進めていると思う。鋼材は強度が高いことに比べてヤング係数が十分でないため、「2」の撓みへの気遣い、地震時や強風時の揺れへの配慮が必須である。構造解析の結果、各接点に生じる変位と各部材に生じる応力が出力されるが、接点の変位は各部材の変形の累積であり、構造物のある点の変位を減じようとしたとき、どの部材をどのように変更したら良いか分からない。これがわかる方法があり、知らないと損する。これは長年シカゴのSOMの秘伝だった。(和田)
参考資料:How to Reduce Drift of Buildings,(Akira Wada),Fourth U.S.-Japan Workshop on the Improvement of Building Structural Design Practices by Applied Technology Council,21.1-21.17,1990. 8
2.最適化研究の最先端
建築のさまざまな分野で,最適化は特別な手法ではなく簡便なツールとなりつつあり,現在の「最適化」は,コンピュータの利用が困難であった時代の最適化とは異なる位置づけを持つようになった。本発表では,構造最適化の基本的な考え方,建築構造での特殊性などを解説し,施工性を考慮した最適化,機械学習の利用,付加製造技術との連携などの新しい流れを紹介する。(大崎)
