A-Forum e-mail magazine no.124 (06-08-2024)

市民に愛されて60年
-時をつむぐ、下関市体育館(「下関」)からのメッセージ

斎藤公男

2024年8月4日、前田晋太郎市長をはじめ多くの来賓が列席する中、60年愛された「下関市体育館」と「下関市総合体育館」の各々、閉館・開館式が同時に挙行された。下関市のシンボルの交替を前にして様々な感慨がわいてくる。当日の「記念誌」に掲載された旧体育館をめぐるエピソードを記したい。

「下関」誕生をめぐるEpisode
通常は施主(発注者)から設計を依頼された建築家は構造設計者の協力を得ながらこれをまとめる。「下関」はこの常識を覆した。「構造家が単独で建築デザインまでも手がけた世界でも稀有な建築作品」として竣工から約50年後に改めてそれを紹介したのは建築史家の倉方俊輔(「ドコノモン」、日経BP、2011)。その構造家の名前は坪井善勝(1907-1990)。坪井への設計依頼の理由はおそらく2つだと思われる。ひとつは坪井と下関市の密接な信頼関係。例えば下関市本庁舎(1955)の建設にあたってはコンペ1等案の実施設計を当時の審査員であった前川國男と坪井善勝が建築課と連繋して各々、一般設計と構造設計に参画している。
いまひとつは坪井の実績に対する期待であろう。国体開催が翌年秋に迫ったこの頃(1962年春)、坪井は建築家・丹下健三と協働しながら東京オリンピックの「国立代々木競技場(1964)」に取り組んでいた。既に日本初となる本格的なRCシェルの「愛媛県民会館(1953)」や鉄骨スペースフレームの「晴海ドーム(国際展示場)(1959)を実現させ、大空間建築の第一人者として世界に認められていた。工期も予算も厳しい中、下関市は藁にもすがる思いでの決断だったに違いない。その状況が目に浮かぶ。
左:「ドコノモン」に掲載された「下関」、右:国立代々木競技場

市から求められた条件は2つ。第一に、体育館(アリーナ)と集会所(イベント)の機能を同時に充足すること。第2に文献にもない世界で初めての新しい構造形式、構造空間を創出すること。与えられた時間は設計に5ヶ月、施工に約1年だった。ステージ(可動)、アリーナ、スタンドを包む最小気積(場所の床面積×高さ)、力強い合掌形と優美な曲面(時としてRCシェルと間違われるような)、屋根と壁とが融け合った立体造形。力学的合理性をもった美しい架構形式。そうした機能・形態・構造を統合する「連続異形山形アーチ」の提案が全ての答えだった。コンピューターのないこの時代、構造設計は全て手計算である。
当時の坪井研究室は「代々木」だけでなく、同じく丹下との協働による「東京カテドラル(1964)」の設計も佳境であった為、「下関」の担当として斎藤公男(当時修士課程2年生)が指名された。基本構想の段階では小模型をつくりながらひたすら多様なスタディを行った。建築計画と意匠設計を協働したのは建築家・今泉善一。かつて東大第二工学部の外郭団体であった建設工学研究会(現・生産技術研究所)で設計活動を共にした盟友であったという。坪井先生の指導の下、基本計画・実施設計を終えると1ヶ月程、「下関」の現場に通い、大成建設と鉄骨ファブ(製造工場)の方々に指導を受けながら、詳細設計に取り組んだ日々を思い出す。最近、偶然にも見つかった当時の構造計算書(手書き・青焼き)を前にすると、さまざまな感慨がわいてくる。溢れ出る感謝の気持ちで胸がいっぱいにならずにはいられない。「下関」よ、永遠なれ―と。
左:基本計画時の外観パース(1962、筆者描く)、右:13. 手書きの構造計算書

それからの「下関」 ―空間構造のルーツと発展
1960年代を代表する大空間建築は何といっても「国立代々木競技場(1964)」である。国内はもとより世界的に見ても20世紀を代表する名建築であることは言うまでもない。コンピューターが現れないこの頃、しかし建築家や構造家の新しい技術的可能性や未だ見ぬ空間創造への熱量は「代々木」だけではない。小澤雄樹はエッセイ「構造に夢みた時代 ―代々木だけではない(The Era that Dreamt of Structure -Not Only Yoyogi )」(a+u 2019年10月号)でそう述べている。香川県立体育館(1963)、東京カテドラル(1964)、駒沢体育館(1964)、群馬音楽センター(1961)と並んで構造家・坪井善勝による特異な事例として下関市体育館(1963)の名を挙げている。岩手県営体育館(1967)、秋田県立体育館(1968、写真)も後に続く。

こうした隆盛を迎えた構造デザインの世界は、やがて1970年になると一気にその勢いを奪われることになる。瞬く間に広がった潮流 ―ポストモダンの出現である。大阪万博(1970)を機に、シドニー・オペラハウス(1973)と共に「代々木」も光を失わされた。

しばし続いた沈黙と停滞。そこからの脱出と飛翔を促したものは「下関」と「代々木」からの2つのメッセージであった。ひとつは「かたちとちから」に対する再認識。ケイタイ抵抗構造のテーマであるライズ(曲線の高さや深さ)とスラスト(支点に生じる水平反力)の関係が鍵となる。いまひとつは「テンション」。曲げ材と引張り材の組み合わせはかつてない空間構成を可能とするはずだとー。 目指したものは、RCシェルやケーブルネットといった力学的合理性からトータルな意味での構造的合理性。その近傍にある美しさ。サラブレドからハイブリッドへ。そうした理念から生まれた「ファラデーホール(1978、写真)」は「下関」のDNAを受け継いだ張弦梁(BSS)の第一号となった。建築家との協働に独自の開発を加えて、約60年間に花開いた様々なプロジェクト。その出発点に「下関」がある。私たちの研究室(空間構造デザイン研究室:LSS)にとってすべての活動の原点であるだけでなく、「日本の空間構造」のルーツのひとつ。それが「下関」なのだと感じられる。

メモリアルコーナー設置への道
話は10年ほど前に遡る。2013年5月、「下関」の耐震改修のための診断・計画が実施された折、斎藤は下関市より調査結果の検討・意見を求められ、その後、現地視察を行った。2018年頃、訪れた旧体育館の二階ロビーで確認できた「下関」の完成石膏模型などを新体育館(下関市総合体育館)に設置する件についいて大成建設に相談している。メモリアルコーナー設置構想のスタートである。2019年1月「建築遺産見学会」、同年4月には下関市役所ロビーにて新旧の体育館を並べた展覧会「変わりゆく、下関市体育館 ~昭和から平成、そして令和へ~」が愛好会の手で実現された。そして2023年3月の見学会に招かれた斎藤は「「下関」からのメッセージ ―時代を超える構造空間のデザイン」と題した講演を行った。2024年5月には最後となる「お別れ見学会」が瀧本景太らによって開催された。2024年6月には「下関」の記録保存のために、「下関」の建築当時の状況や建築的特徴などを取材されることになった。

今回、新しく竣工した「下関市総合体育館」のエントランス・スペースの壁面を美しく飾るのは旧体育館(「下関」)を象徴する曲面パネル。そしてそれを背にしたメモリアルコーナー。おそらくは世界でも初めてと思われるこうした歴史の記憶をカタチとして実現し得たものは、市民の方々の愛と、それを支えた下関市の熱意であろう。

ところでA-Forumとは2013年12月に東京・お茶の水の地に設立された任意団体(フォーラム)であるが、その起点は日本建築学会(AIJ)にある。2007年、斎藤がAIJ学会長就任の際に発した言葉 ―アーキニアリング・デザイン(AND)とはArchitectureとEngineering Designとの融合・触発・統合の様相を意味するもので、A-Forumの理念として掲げられている。約10年間、ここでは多くのテーマのフォーラムや研究会、表彰、展示(図書・模型)、出版など常時活発に活動してきた。最近ではオンラインによる参加者や学生たちの出席も増加している。歴史的建築遺産に対しては特に積極的な関心を寄せる人々は多い。そして今回、このA‐Forumが、「下関」のメモリアルコーナー設置の企画をサポートできることは大いなる喜びであり、誇りでもある。去り行く過去の遺産をこれからの未来につなごうとする今回の企画が、公共建築と市民を結ぶ全国で初めての試みとして注目され、評価されることを願いたい。
左:解体目前の「下関」(2024.05)、中:黄金色の曲面屋根、右:アルミパネルの壁面とメモリアルコーナー(計画案)


第53回AFフォーラム「構造美について―合理性と倫理性の視点から―」

日時:2024年09月19日(木)18:00~
コーディネータ:神田順
パネリスト:八馬智(千葉工業大学)、名和研二(すわ製作所・なわけんジム)、中畠敦広(yAt構造設計事務所)
お申込み(リンク先にて会場参加orZoom参加を選択してください。):https://ws.formzu.net/fgen/S72982294/

Youtube:https://youtu.be/6z05XfZWlAA

かつて、「建築構造パースペクティブ」(1994年)を日本建築学会から刊行したときに、「構造は美しくあるべきか」という拙文を載せた。そこでは、今はない日本IBM本社ビルの鉄骨構造が立ち上がったときに、美しく思ったことから構造設計を志したというような趣旨を記した。そもそも構造は美しいのでそれをCGで表現したら構造の魅力が伝われるのではないか、というような趣旨である。そうは言っても、中には、構造が、これは美しくないというように思われるものもある。その場合、構造というよりは、もともとの計画の問題だったりする。美しい構造もあれば、美しくない構造もある。
ここでは構造設計者あるいは構造エンジニアから、構造を美しくしようと思うか、あるいは、構造を美しいと思うのはどんなときか、という問いかけへの対応を聞いてみたい。ひたすら合理的で無駄のない形を美しいといえるか。美しくすることが倫理性に外れることはないか。合理的であるべきとするころに倫理性を感じるか。
柱梁で骨組みを構成するときに、階高とスパンの比や、柱断面、梁成の適切な寸法をどう決めるか。全体のバランスが大切だとして、そこに形態としての美しさを組み込むために、構造合理性から少し離れるときの決断をどのようにするかは、設計者個人の技のように思われる。出来上がった形の美しいものは、多くの人が美しいと納得するように思う。もちろん、中にはそうでない場合もあることは承知しているが。
新幹線の、両端に跳ね出し梁の連梁の橋脚の設計にあたり、跳ね出しを柱間隔の2分の1にすると、全体が均等間隔となる。しかし、梁端部の曲げモーメントを考えると柱スパンの3分の1より小さくする方が合理的であったりもするときの、設計判断の問題である。また、日本で一般的な柱の断面は、ヨーロッパ、アメリカなどに比べて大きい。これは耐震性を持たせるための理由と考えられるが、そこで一般的な柱断面より、意図的に細くすると、美しく感じられると判断する場合などもあろう。これらはほんの一例である。
パネリストとして3名の構造エンジニアに具体的な構造を対象にして話題提供をお願いし、その後で自由討論の場としたいと考えております。大勢のご参加をお待ちします。


防災学術連携体:令和6年能登半島地震7ヶ月報告会が開催されました

日時:2024年7月30日(火)13:00〜17:20
Youtube:https://youtu.be/NYHk6ssNY5Y

ご案内PDF、 詳細はこちら
神田順
まちの中の建築スケッチ 「求道会館ー住宅街の集会場」/住まいマガジンびお
8/10~8/18 夏季休館
SNS
aforum4   (旧Twitter)AForum9   A-Forum Staff