A-Forum e-mail magazine no.121 (13-05-2024)

建築と法律と倫理

神田順

日本建築学会で、倫理について議論してきている。今年8月の大会の研究懇談会でも、1999年に制定した倫理綱領・行動規範について、実践という視点で、何をすべきか考えてみようということになっている。倫理委員会では、いままでもいろいろな形で倫理教材を作成したりしているが、日ごろ建築にかかわる活動や業務が、十分に倫理的であるかを自ら問うということを求めるのであるが、実は簡単ではない。設計段階や工事段階で間違えに気づいたときに、見つからないから放置するというようなことなく、関係者に連絡した上ですぐに対処する、というような具体的な事例の場合は、ある意味わかりやすい。

構造安全性が適切であるかどうかとなると、簡単に答えはでない。工学的な問題のようでいて、実は倫理的な課題でもある。不十分であれば、大きな災害につながり人命を失うことになる一方で、過剰であれば、資源やエネルギーを過大に消費することになる。人工物であると同時に、特定の人に限らずに利用されることも特徴といえる。地球環境問題が問われているときに、経済行為としての建築が倫理的であるかどうかは、たとえ簡単ではなくとも、丁寧に問うた上での決断が必要である。建築が存在する限り、限られた空間を占有するわけである。建築が社会のために役割を果たすということが、一部の人の便益になって、多くの他者の不都合を生むとしたら問題である。人類の自然との共生という課題に直面する現代にあって、気候危機を人為的に加速させることになっていないか、考えてみて、場合によっては立ち止まることも判断としてありうるということである。

多くの場合において、社会共通のこのような、環境や安全の問題に対応するには、一般には法律で規制をかけることが考えられ、実際にそのように制度化されている。個人の判断が、どこまで社会で受け入れられるかについて、公開性をもってルール化できれば、建築に関わる者にとって対応しやすいから、法律を守ることで倫理性を問われずにすむという面がある。しかし、ルールはすべて将来のことに関して適切な答えを用意しているとは考えにくいし、まして、わが国では建築基準法が建築主の建てる権利を原則としたうえでの最低基準の規制になっているということもあり、なおかつ過去のルールを変更しにくいとなると、法律を守るだけで倫理的に適切な判断をしたことになるとは思われない。法律を守ることは一般には必要だとしても、法律が適切でない場合に、倫理的判断が優先することもありうる。

法規制が複雑になると、問題も見えにくくなるので、建築にあっては、あらゆる局面において、決断をする者(建築主、設計者、施工者など)の倫理性を問う必要があるのだと思う。21世紀に入り、自然災害や新型コロナ感染という、人類社会として、これからも向き合わなければいけない課題を経験して、建築のあり方も大きく関係していることは、想像に難くない。倫理という問題に対して、法律があろうがなかろうが、適切な判断ができるとはどういうことか、専門家としての存在意義がどこにあるか、考えてみると、倫理的に適切な判断であるということが、何よりも求められるのではないか。

日本建築学会の会員証の裏面には、8行の倫理綱領が記されている。「建築の社会的役割と責任の自覚」なくしては、人々への貢献は成立しない。成熟社会であるからこそ、建築において倫理が語られること、議論されることに意味がある。


第52回AFフォーラム+KD研1-13
「感性と技術とAIと― 空間と構造の交差点をめぐって」

日時:2024年06月15日(土) 14時~
コーディネータ:斎藤公男
パネリスト:
「効果的加速主義と効果的利他主義を超えられるのか」加藤詞史(加藤建築設計事務所)
「現代建築が忘れていること―失われていく五感の感覚」堀越英嗣(芝浦工業大学名誉教授、東京藝術大学客員教授/建築家)
「ネオ・クリエイティビティ(+共創)の探求 Exploring Neo-Creativity」松永直美(レモン画翠)
お申込み(リンク先にて会場参加orZoom参加を選択してください。):https://ws.formzu.net/fgen/S72982294/

Youtube:https://youtu.be/WEaL2Q8-fn4

お茶の水の地に生まれたA-Forumは昨年末(2023.12)に無事、10周年を迎えることができた。思いおこせば2013年12月頃、建築界の話題の中心は何といっても2020年・東京五輪の「新国立競技場」。国際デザインコンクール(2012)によって最優秀案に選ばれたZaha Hadidの計画案の推移に注目が集まっていた。約半年にわたって(ひそかに?)進められていたフレームワーク設計がほぼ終了し、基本設計がスタートする直前の緊迫した空気を思い出す。その1年後、第5回AFフォーラム(2014.12.8)でも新国立をめぐる多様な視点(計画と技術)が熱く議論された。突然、計画が白紙撤回(2015.7.17)された翌月には第9回AFフォーラム「大屋根が動く、ということ」(2015.8.27)、そして約8年続いたAND展の凱旋展を記念して「新国立の現実と幻の狭間」と題したフォーラムが開催された(2016.1.25)。国際コンクールで選んだ「ZHの新国立」を実現できなかった日本国のとるべき責任は重く、急逝したZH(2016.3.30)の無念さは想像に余りある。そのことをどう受け止めるべきかの反省・議論は深化しなかった。不思議なことにZHのデザインについては誰も言及しない。建築デザインとは何か、つくるべき建築とは何か。感性と技術とITはどう交差するのか。そうした視点はAFフォーラムで反芻すべきテーマと考えてきた。
今回のAFフォーラムのタイトルに「感性と技術とAIと― 空間と構造の交差点をめぐって」を設定した背景のひとつはここにある。

A-Forumを支える基本理念― アーキニアリング・デザイン(AND)とはArchitectureとEngineering Designとが互いに融合・触発・統合の様相とその成果をめざす言葉。なかなか適切な日本語訳は見つからないが、職能的に通じ易い「構造デザイン」を超えて、建築家とエンジニアの協働を顕在化したいとの思いは強い。それをなぜ今、声高に伝えようとしているのか。
かつて山本学治(1923-1977)は建築のデザインと構造の分離と統合についてこんな一文を残している(青文字部分が引用、新建築、1954.5、7)。

―「デザイナーと構造技術の協働」とか「デザインと構造の結びつき」とかは現代建築の大きな問題として、しばしば話される文句である。けれども一体、過去の歴史を考えてみるなら、その建物を構築する方法が設計の仕事に含まれていなかった時代があったろうか。(略)ことさらにデザインと構造の結びつきを問題としなければならないくらいにその両方が分離している状態は、現代建築の持っているネガティブな特殊性ともいえるでしょう。
<この特殊性はどこから生まれるのか?>

―現在、デザインと構造の関係が重要視されねばならない理由は、よく言われるように「デザイナーが構造を理解せず、構造屋がデザインを理解しない」というような両者の勉強不足の程度にあるのではない。もしある材料を適切に用いて、ある目的のために適切に機能づけられた建物を、建築の設計、すなわちデザインと呼ぶならば「デザインと構造」などという言葉の使い方自体がヘンである。現代建築の不幸は、デザインと構造が分離していることにあるのではなく、構造計画を含まない設計行為をデザイン、としているところに始まっている。それ故、この不幸の解消のためには、従来の意味でのデザインと構造の協力というより、そのおのおのが各自のあり方を改変して、自らの分担を組みなおすことが必要だと思われる。
<各自のあり方を改変するとは、どのようなことか?>

上述の山本学治の言説は今から70年ほど前のもの―。今日にも通じるリアリティが感じられる。
建築家と構造家の協働、あるいは感性と技術の融合が最高レベルで結晶化したものは丹下健三(A)と坪井義勝(E)による「国立代々木競技場」(1964)であろう。その様相は、デザインプロセスを全く異にする他の2つの20世紀を代表する壮大なプロジェクトー 「ミュンヘン・オリンピック競技場」「シドニー・オペラハウス」に相通じている。この時代、コンピューターは皆無か、未成熟であり、TOOLとしてのその価値がようやく認識され芽生え始めた頃。何よりも基本構想が問われ、相互のリスペクトと協調が求められた。

1990年頃を境にして、IT技術は建築デザインの世界で一気に加速する。
そして今、建築界においても「AI時代」の到来、という。建築学会でも建築雑誌の特集をはじめ、様々な企画が試みられている。若い世代もこうした動向に敏感と思われる。「建築電脳戦」も興味深い。その一方で、感性と技術を駆使し、素材と構造、空間と造形をリアルに体験するワークショップがある。例えば長く続いている「銀茶会」や「学生サマーセミナー(SSS)」など。もはや「IT時代」という声は聞かない昨今であるが、人間力としての感性を磨き、技術への理解力を高めながら、AI時代にどう向き合うか。これからの建築教育にとっても困難かつ重要なテーマとなるに違いない。AND賞のめざす視点もそこにあろう。

それから間もなく、21世紀に入るとIT技術の成熟とともに出現してくるのは建築表現主義(?)な建築群。例えば2008年・北京オリンピックの「鳥の巣」や「水立方」などではコンピューターの威力の前に責を負うべきエンジニアの姿は見えなくなる。そしてその先に、ZHの「新国立」が立ち現れる。CGの描く優美でダイナミックな姿形は見る者を魅了した。「見てみたい」と私も思った。しかし虚構ともいえる構造形態は独り歩きを始める。最初はイメージ・デザイン。新たな日本の土俵が必要だとわかっているはずなのに、私自身にもそれを止める策も力も足らなかったと自省している。

今回のAFフォーラムではあらためて「建築のデザイン」の有様、特に感性(意匠・芸術・空間)と技術(素材・構造・環境)をめぐる過去・現在・未来について各自が関心を寄せる所感を交わしてみたい。」

<参考文献など>
「AIの利活用に関する特別調査」(AIJ、2021.3)
トークイベント「建築電脳戦にみる生成AIと人、そして建築」(稲門建築会、2024.1)
PD「最適化・AI手法で構造設計は変わるか」(AIJ、2019)
特集「AIの衝撃:期待と葛藤を抱えて進む」(建築雑誌、2024.3)
「建築擬人化計画」(建築情報学会、2024.3)
「情報と建築学: デジタル技術は建築をどう拡張するか」(東大特別講義、学芸出版社、2024)
日本建築学会・建築文化週間2023「建築電脳戦」 AI×建築学生 最前線(AIJ、2023.10)


第34回AB研究会 これからを担う若手建築家の活動と実践09「miCo.」今村水紀+篠原勲

日時:2024年06月22日(土) 14時~17時
司会:香月真大(SIA一級建築士事務所)
お申込み→https://ws.formzu.net/fgen/S42040957/
Youtube:https://youtu.be/g8O_Jq_4OQE

1部 近年の仕事について 今村水紀+篠原勲(miCo.
2部 討論「建築のかたちが生まれる環境  周辺のかたち、共同のかたち」 コメンテーター:青井哲人(明治大学理工学部建築学科教授)

アトリエ事務所と中小企業の設計事務所が呼ばれるようになったのは1963年の「磯崎アトリエ」の誕生からであり、アトリエ事務所の労働環境が厳しいものであることが囁かれるようになったのもこの頃からだと思われる。
しかし、近年ではその考え方が大きく変わってきている。
多くの設計事務所では人材不足の問題もあり、働き方や取り組み方も大きく変化している。
今回お招きしたアトリエ事務所のmiCo.は、妹島和世建築設計事務所/SANAAを経て2008年にmiCo.共同設立した設計事務所である。micoは独立した設計者から成るひとつの建築集団を目指しており、関わる全ての人々と一緒に、環境や世界と共に生きる建築を作ることをテーマにして、リノベーションなどの小さな仕事からスタートした若手建築家である。
東玉川アパートメントの移転先のオフィスでもコロナなどの社会情勢に合わせて柔軟に対応しており、食事するスペースと仕事をするスペースが大きなテーブルを2つおくことでつかいかたに余白をつくり、miCo.の目指している「個性のあるフレキシブルなチーミング」を体現している。
今回は近作の話をうかがうことで、彼らの思想や考え方について深く掘り下げながら、これからのアトリエ事務所の設計をめぐる環境づくり、そしてそれが生む建築について議論したい。
(香月真大)


書籍紹介

「橋をデザインする」
藤野陽三、他/ISBN 978-4765518871
10年前のA-Forumの発足にも応援に来ていただいた藤野陽三ら8名が技報堂出版より「橋をデザインする」を出版しました。欧米や中国の構造設計者は橋梁も学び建築も学んでいます。世界貿易センタービルなどの設計で著名なLeslie Robertsonは建築だけでなく美しい橋も設計しています。明治以来ですが、日本の土木工学と建築学科はそれぞれの道を歩んできたため、同じコンクリートと鋼材を用いて構造物を作っているにも関わらず、別の分野のようになっています。このようななか、内藤廣は建築学科を卒業して土木工学科の教授、6月から土木学会の会長に就く佐々木葉も建築学科の出身です。すでに、別の分野と言っているわけにはいきません。交流だけでなく互いに学ぶ必要があると思います。
橋や橋梁には仕上げ材がついていないので、構造物そのものが重要ですし、重力に抵抗する力の流れと勇敢で精巧な姿は、ほとんどの人に理解され多くの人に感動を与えます。
内藤廣は、「橋は文明が勝ち得た偉大な技術であると同時に文化だ。だから、美しい橋は人を幸せにする。美しい橋は人の人生を彩る。そんな橋の作り方がここには書かれている」と書きこの本を推薦しています。(和田章)
神田順
まちの中の建築スケッチ 「多摩全生園旧山吹舎ー森の中の木造平屋」/住まいマガジンびお

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