斎藤公男
何年ぶりであろうか。「出雲ドーム」が建設中だった当時は何度も通った出雲市であり、その後も何回か来たはずなのにすっかり記憶が薄れている。羽田発14:15のJAL283便は出発が大幅に遅れ、時計はすでに16時になろうとしていた。機体が大きく傾きゆっくりと下降をはじめると、窓の外いっぱいに出雲平野が広がってくる。黄砂のためであろう、景色は煙っている。宍道湖から日本海へ流れるのは八岐のオロチ伝説の斐伊川。そして出雲大社を祀る北山の森に続く街と緑の中に、一瞬、小さく白く光るのは出雲ドームだ。久しぶりの恋人と会える。そんな感慨がわいてくる。
空港から出て直ぐにタクシーで出雲市役所へ向かう。2009年竣工の市役所(日建設計)の玄関ポーチの屋根には出雲大社をイメージした千木風の鉄骨が載っている(後にこれは内藤鉄工の製作と知る)。この日はちょうど、年度末最後の金曜日。所内のフロアでは退所される方へのお別れの囲みが見られ拍手が響いていた。4階の観光課をのぞいてみる。街のチラシなど手に取っているとすぐに若い職員が何か困り事かと声をかけてくれた。「元市長の岩國哲人さんって知っていますか」と聞くと全くわからないという。その時、ちょうど年配の方が通りかかり声をかけてくれた。「岩國さんは昨年(2023)の10月6日、アメリカのシカゴでお亡くなりになりましたよ」と。
そうだったのか。享年87歳。約30年前の出雲ドームの竣工式で最後にお会いした元気なお姿が思い浮かぶ。6年間の市長職から一転して東京都知事選へ立候補したのが1995年。それからの激動の時代、さまざまな挑戦の軌跡を刻む。なんと政界を引退した2009年(67歳)はこの建物が竣工した年だったのだ。そんなことを考えながら夕暮れの市役所を後にした。明日はいよいよ「出雲ドーム」との再会。果たして今夜は眠れるだろうか。
ところで岩國氏と「出雲ドーム」はどうつながるのだろうか。略歴を少し辿ってみよう。
岩國氏は1936年大阪市生まれ。私の2歳年上になる。小学校1年生の時に父が他界し母の故郷である現・出雲市に移り、高校卒業まで母を助けて畑仕事を手伝ったという。東大法学部に進学し政治学を学ぶ。在学中は出雲市と島根県から奨学金を授与。故郷への感謝と恩返しの念はここからも生まれたのだろう。卒業後は約18年間、日興證券の海外支店などを歴任した後退社、モルガン・スタンレー社を経て1984年にメリルリンチ社日本法人の社長に就任する。NY在住の1988年秋、現市長の次期不出馬の報をうけて、突然、出雲市長選への出馬を決意。自社公民の4党の共同推薦をうけての立候補となったことからも保守的・閉鎖的といわれる出雲市がいかに開放性・革新性を望んでいたかが伺える。「ウォール街から神話の国へ」「経済界から政界への転身」といった話題を集めながらスタートがきられた。
1989年の初当選からわずか2年でトヨタ自動車、ソニーなどと並び、「出雲市」は日本で最も優れた企業として、JMA(日本能率協会)マーケティング最優秀賞を受賞。行政は最大のサービス産業」、「小さな役所、大きなサービス」という持論をもとに、ショッピングセンター内の行政の土・日サービス、樹医制度の創設、総合福祉カードの導入といった新政策を実施、そして何といっても、日本最大の木造ドーム「出雲ドーム」の企画・建設が高く評価された。
「国がダメなら地方から」のメッセージは、当時の日本国民のみならず世界を驚かせ鼓舞した。世界人・日本人・地方人としてのトリプル発言。多くの岩國語録 ―発想・批判・実現力は著書「出雲からの挑戦」(1991、NHK出版)に詳しい。氏が創設に尽力した「出雲駅伝」は今も続いている(1989年に出雲神伝として創設、毎年10月のスポーツの日に開催される)。
岩國氏はNYの摩天楼を望む高層アパートの窓から別世界の出雲の風景を思い描いていたのだろう。氏の通った小・中・高校はみな木造校舎であった。「日本の文化の特徴は木と紙の文化」といい、「地球で一番大きな生物は森、一番長生きしている生物は森」とも説く。「樹医制度」を設け、小学生に「樹木ノート」を配り、新しい校舎や公民館の「木造り」をめざした。やがてその先に思い描いたもの、それが「出雲ドーム」だったかもしれない。
発端は岩國市長が誕生した1989年に遡る。初めに「プールを含む複合的な体育館をつくる計画があった」と当時の建築課長・伊藤幹郎はふり返る。ゼネコンと建築家(有識者)、イベントプロデューサーを組み合わせる新しいコンペのアイディアは恩師の木島安史(1937-1992)の助言に負ったという。めざしたのは、天候に左右されることなく、また季節風の強い冬季も含めて1年を通して利用でき、老若男女が集える健康づくりの全年齢型・全天候型の多目的スタジアム。地方からの情報発信の場としてのドーム構想が動き出した。「金がなければ知恵を出せ。知恵がなければ早くやれ」。市長の決断が全てであった。市政50周年記念事業「出雲健康公園プロジェクト」に託されたゼネコン7社による指令コンペがスタートする。
応募したゼネコンは7社(大林・鹿島・熊谷・清水・大成・竹中・フジタ)、うち木造案は2社(鹿島・フジタ)であった。審査委員会のメンバーは香山壽夫委員以下7名。最優秀案には鹿島建設案が選ばれた。
結果として奇しくも岩國市長が夢見た木造ドーム実現の道が拓かれたわけである。その喜びは竣工式(1992/3/16)における市長挨拶の中によく表れている。
「(前略)私の求めた木の温もり、優しさを充分表してくれているこの出雲ドームは、現在の最新技術の粋を集めた、世界最高の高さを誇る木造ドームであり、日本最大の木造建築物であります。使用した集成材はアメリカ産のダグラスファー(ベイマツ)であり、日米構造摩擦の解消にも貢献できたのではないかと考えております。古代最大の木造建築として『マツリゴ』の中心であった出雲大社のあるこの出雲の地に誕生した出雲ドームは、古代と現代の架け橋となり、人々の交流のステージとして、また情報発信の基地として、出雲新時代を拓くシンボルとなることを確信しています。」
鹿島案のテーマは「八雲たつ出雲に光る風と木を」。“もくもくドーム”と命名した。最大の狙いは2つ。第一に歴史と文化を体現する「木」の大空間を美しく合理的に実現すること、すなわち建築形態(内・外)と構造形態の新しき融合。第二に快適かつ適合性の高い市民に愛されるようなドーム空間の創出。
コンペ時の審査会の評価軸と提案のポイント(特徴)は次のようなものである。
A 建築意匠
・出雲地域特有の景観との調和:巨大ドームにつきものの威圧感をなくす大きな凹凸折面による陰影のある外観。膜の採用により昼夜を通じた街のシンボル性を高める
・蛇の目をイメージさせる木と膜による軽やかな内観:横つなぎ材のない独立した放射状のアーチが類例のない「木」の表情を可能としている
B 平面計画・利用計画
・ドームの足元の開放性を高めた半野外的な室内環境:ポリカーボネート製大型ジャロジーを回転させ屋外周の芝生バンクとつなげる
・各種スポーツ・イベント等の多目的利用への対応:固定スタンドと可動スタンドの組み合わせとする
・照明・音響の効果的制御:中央リングの多目的利用を計り吸音バナー(可動式)を設置する
C 構造計画
・放射状木造アーチの実現:格子アーチ、ラチス、立体トラスといった鉄骨の代替ではなく、前例のない新しい構造システムの考案によって、求められる内外の建築形態を実現する
・新しいハイブリッド・テンション構造(張弦立体木造アーチ構造)の考案:単層放射アーチに安定性と剛性を保持させるため、テンション群(ダイアゴナルロッドとフープケーブル)を挿入し、自重や偏荷重(風・地震・雪)に対応する。テンセグリック構造のひとつと位置づける
・プッシュアップ工法への挑戦:施工プロセスに生じる動きのあるディテール、張力導入法を工夫する
・クリープ現象の回避:大断面集成材(アーチ)の支配応力(圧縮)は部材同士の軸方向ウッドタッチで伝達。自重によるプレストレスが期待される
・押さえケーブルの有効配置:アーチ内のVストラット、軒先の跳出しトラスにより深いV字状の膜面を形成し、押さえケーブルの耐風(吹上)効果と滑雪効果を高める
コンペから竣工まで約3年間、多くの人々がさまざまな努力を傾注し見事なチームワークにより「出雲ドーム」は完成された。数々の物語があるが、私にとっても忘れ難い思い出がある。
Episode.1 基本構造でのスリリングな展開
「グリーンドーム前橋(1990)」の応募に求められたのは「ゼネコン+設計事務所」の条件だったが、今回は「ゼネコン+建築家(有識者)」。私に声をかけて誘ってくれたのは播繁氏だった。構造家との協働は実に楽しく、施主や建築家、建設現場と共にゼネコンでは考え難い未知への挑戦の扉を開くことができた。ひとつは張弦木質アーチの考案。直前に鹿島建設と協働した「天城ドーム(1991)」が発想の起点となった。
いまひとつはプッシュアップ工法の採用。コンペではイメージされていたものの実施段階では暗礁に乗り上げかけた。誰もが不安であった。急遽呼び出された役員会議の席上でスケッチを描きながら「仮設タイケーブルで自碇させれば絶対いけるはず」と提案した。現場所長・桒原宏悦氏の「よし、やってみましょう」の一声は今も忘れられない。
Episode.2 建方中の強大な台風の来襲
1991年9月27日、北からUターンした最大級の台風19号がプッシュアップ直後の「未完の出雲ドーム」に襲いかかった。いまだに充分な強さをもっていないドームは風速60mの烈風に一晩中さらされた。現場事務所は吹き飛び、周辺のコンクリート製の電柱は根元近くから折れた。1枚おきの膜張状況や中央構台が撤去前であったが、出雲大社(神々)への祈りが通じたのかドームは耐えぬいた。
翌日、夜明けを待ちきれず一斉に窓を開け放った人々の眼に映ったのは、台風一過の青空の下に誇らしげに立っている出雲ドームの白い姿だった。
Episode.3 市民とつくり上げるドーム建設のプロセス
建設当時、敷地周辺には緑地や水田が広がっており、ドームの建方の様子はどこからでも見ることができた。「建方」そのものが市民をまきこむ一大行事。見学会や小学生の写生大会などの市民の参加イベントが続く。ある日市長から現場所長が頼まれた。「お盆休みの帰省中に出雲市民の方にドームを形として見てもらいたいが間に合いますか」と。実はすでに週刊誌に連載中の岩國氏の随筆には「8月11日、地上最大の上棟式を行う」と書いてあったという。
上棟式に訪れた来場者は約1万人。(当時の出雲市の人口:8万3千人)「未知との遭遇」の音楽が高らかに響く中、最後のボルトが空中に上っていく。岩國市長は挨拶の中で台風の話に触れた時、二度ほどぐっと詰まり感涙した。私も、そこにいたすべての人達も同じ。会場全体が熱い感動の波に包まれた。その時の光景は今も鮮やかによみがえる。
2024年3月30日(土)8:40。出雲空港で見学ツアーに参加の一行を出迎える。今回の主催は空間 構造 デザイン研究会(KD研)。昨年(2023年1月)の「東北見学ツアー」に続く第二弾である。地元OBの内藤輝一氏らの案内で出雲・松江を中心とした2日間の行程とした。前日の黄砂も止み、久しぶりの好天という。大型バスに乗り、まずは出雲ドームへ向かう。よく整備された広大な公園を背景に深い陰影を刻んだ白いドームは健在であった。少年野球チームの子供たちからの元気な挨拶からは施設と市民の一体感が伝わってくる。
一歩、ドーム内に足を入れると、そこはまさにスケール感を失わせるような異空間。膜とのベストの組み合わせ、ストリング(脇役)を従えた「木」の主役ぶりは圧倒的であった。竣工して約30年を感じさせない、既知感のない光景。一番の驚きは、初めての体験者のような自身を見出したことであった。ツアーの皆さんから質問や感想が寄せられた。「現物へ来て実際に建物を見ることができて本当によかった」というコメントは何より嬉しかった。
出雲市を南へ、石見銀山に向かう途中、バスを山頂にとめ出雲ドームを遠望することにした。お椀を伏せたようなドームは、形といい色といい、これ以上のシンプリシティはないといった風情で出雲平野にとけこんでいる。夜になれば提灯や行燈のように輝きはじめ、それが“街”のどこからでも見える。こうして市民の心のシンボルとなることが、おそらく岩國哲人の夢みた「出雲ドーム」だったにちがいない。
私にとって辛い言説であるが、忘れることのできない建築家の一文(出雲ドームの感想)を思い出す。
「唐突に出現した出雲市の外国製の集成材の大規模建築や、木造に見せかけた薬師寺金堂のはげ落ちたコンクリートの構造体、鉄錆の出た丸パイプの垂木を見ると、日本固有の文化があまりに蔑ろにされているのではないかと疑うのである。建築は決して建設業のみの成果ではなく、その地域の文化であり、歴史であり、地域社会そのものではないだろうか」。
著名で敬愛すべき建築家の言であるが、その真意は計れない。果たして彼は出雲を訪れ、現地に立ってくれたのだろうか。名のある人のこうした発言の影響は小さくない。翌年の建築学会賞の現地審査候補にも洩れ、審査委員の講評にも「出雲ドーム」は触れられていない。施主と市民のために意が尽くされた施設だけに残念な思いだけが取り残されている。
日時:2024年04月17日(水) 23:00~23:30
出演者:田中卓志、篠原ともえ
ビルの声:倍賞千恵子
ゲスト:斎藤公男
近現代ビルのスゴみを味わい尽くす建築愛好番組。 ビルの秘密を語るのはビル自身。建築学に精通するアンガールズの田中卓志さんとビルを探訪しビルと対話しながら、その魅力に迫ります。
イメージとしは「ブラタモリ」の建築バージョン。
今回は「代々木競技場」を紐解くことで建築家・エンジニアがどんな思いを次世代に伝えようとしていたかを深堀りする。
以前の BS プレミアムから総合 TV に移る新シリーズの放送。