A-Forum e-mail magazine no.106 (02-20-2023)

「飛躍する構造デザイン」、その先にあるもの
―渡辺邦夫からのメッセージ

斎藤公男

2023年4月3日は渡辺邦夫さんの三回忌という。過ぎ去る月日は早い。2019年7月、建築倉庫ミュージアムにおいて「構造展―構造家のデザインと思考」が開催された。副館長でキュレーターの近藤以久恵氏に請われて企画段階から関わることが出来たのは幸いだった。展示に参加した構造家は45人。パネルと模型に加え映像による各人の「構造デザイン」への熱い思いが会場に溢れた。会場入口は5月に急逝した川口衛氏のコーナーとして飾られ、そこに並んだのは「東京国際フォーラム」の大きな模型。突然に遠路より運び込みたいというその申し出にOKを出させたのは渡辺さんのパワーにちがいない。車椅子にのりながらも嬉しそうな満足顔。私が会った元気な姿はその時が最後となった。

逝去を悼み、多くの方々が彼の足跡をみつめながら、その類まれな人柄と業績について述べられている。ここでは私にとって忘れ難いいくつかのエピソードと彼が時折発していた言葉の中から印象的なメッセージを語りたい。

1963年、日本大学建築学科卒業の渡辺さんは私の2年後輩になる。クニさんとかナベさんとか呼ばせてもらってきた。当時人気の「構造研究会」の中でも目立つ存在であり、デザインにも興味を持つ点でも相通じるものを感じていた。私は随分悩んだ末に坪井善勝研究室に辿り着いたが、彼が構造の道を選んだ理由は実に明快かつおもしろい。つまりこういうことだ。同級の優秀な意匠希望者が10人いたという。従って、日本中で考えると、10(人)×100(校)×10(前後年)=1万人。数少ない建築家をめざして彼らと競うことになる。その人生は大変で意味がない。それに比べ構造を選ぶ優秀な人間は同級生にはいない。となれば全国でもせいぜい100人ほどか。競争率が二桁ちがう。だから就職先は構造でいこうと。そこで4年生になる前の春休みに横山不学先生に会いに行く。東大や京大の卒業生が多かった当時、横山先生はびっくりしてすぐにOK、早く来なさい、と云われたという。

卒研で選んだのは佐藤稔雄研究室。佐藤先生は私が東大生研の坪井先生の紹介で引き取って預けられた斎藤謙次先生(当時学部次長)の一番弟子になるが、当時もっとも人気のない研究室を渡辺さんが選んだ理由は自分勝手のことができそうだった、という。盟友、石丸辰治(故人)も含めた4人組が生まれた。卒論のテーマは「塑性座屈」。東大生研の田中尚、東工大助手の平野道勝とも交流し、入りびたった横山事務所では気鋭の木村俊彦に憧れ前川國男を神の存在と感じたという。4年最後の卒業設計では見事に「桜建賞」を受賞している。

1960年に開催された世界デザイン会議(WODECO)に刺激されて設立された全国学生デザイン会議にも積極的に参加したことは彼にとって学生時代の最大の成果といえよう。日大にとどまらず明治、東大、日本女子大、早稲田、東工大などの学生達と交流した。このネットワーク作りは奇しくも私も同じ。この頃院生に進んだ私自身も黒川紀章の国際会議出席の協賛金集めに企業訪問をしたことを懐かしく思い出す。
いずれにしろ、抜きんでた行動力、建築への好奇心と構造への情熱が育ったのは多人数教育の日大故かとも想像する。大学時代からすでに渡辺さんの世界は限りなく広くダイナミックに息づいていることがうかがえよう。

横山事務所に入所して一年経った時、大谷幸夫が「京都国際会議場」のコンペに勝ち、これを機に独立した木村の許へと移る。多くのことを学びながらの6年間。やがて疑問が加速する。「たしかに木村さんは有名建築家とつき合い、きら星のような作品に自分も参加できるかも知れない。しかし世の中の建築はあまり変わっていかないし、いいものができていない」と感じたという。1969年、29歳で独立。私の研究室の卒業生、高橋一正君も第一号の所員となった。横山事務所からの同僚、相原俊弘氏も加わり、青葉台のマンションの一室で「構造空間論」を熱く語った日々が思い出される。やがて両者が分かれる時、“SDG”と“構造設計集団”の名をどちらがとるのか、の議論も忘れられない。小さな住宅やマンションにも心をこめ、構造デザインに情熱を燃やし続けた。

やがて1970年後半、オイルショックに代わってポストモダニズムの思潮が台頭しはじめる。空間と構造は乖離し、構造の有様に耳を傾けるメディアも建築家も消えていく。1984年頃であろうか。木村先生を囲む恒例の品川テニスコートでの早朝練習の折、奥様が涙ながらに洩らした言葉がある。「渡辺さんはひどい。木村先生が居なければ僕らにも仕事が来るのに。消えてほしいというんです」と。その頃のスタッフは8人位。いよいよ事務所をたたもうとしたその時「幕張メッセ」のコンペの記事を読んだ。今回は槇文彦さんが有望という。最後のチャンスをものにすべく早速訪ねて売り込んだ。「僕は今、非常に実力も充実しているし、気力も体力も人生の中で最高だ」と。槇氏も応じた。「いや私もそうなんです」と。その言葉に、自分の未来を重ねたのであろうか。終生忘れ得ぬ言葉として感動したという。

恩師木村の恩情も支えになったであろう。「幕張メッセ」(1989)は快心の出来映えであった。渡辺さんは大きく前へ飛躍し始めた。内藤廣氏との「海の博物館」(1992)のスタートも1987年頃であろうか。その後「東京国際フォーラム」(1996)、「ウルサン競技場」(2001)、「横浜港ターミナル」(2002)といった壮大なプロジェクトが実現していったのである。

渡辺さんと私は立場や目線が違ってはいても「構造デザイン」への夢や実践を共有しながら長年、よきライバルだったと思う。1990年1月、渡辺さんの企画で1年越しの「新春対談」(鉄鋼技術)があった。渡辺さんは幕張メッセ、わたしはグリーンドーム前橋や出雲ドームのプロジェクトに加え、念願だった博士論文をやっと手にした頃。二人とも気合十分だった。9頁にわたる対談記事は互いの構造デザインへの思いに溢れていたが、特に印象的な彼の発言が2つあった。ひとつは大空間への批判である。「内部はいいが外観は大体ダメだ。典型的なのは「晴海ドーム」(1959)。構造設計や空間には感動を覚えるが外から見るとゴロッとして全然面白くない。ローマのコロセウムの方がずっといい」。ひどいことをいうな、分かってないな、と思った。
いまひとつはエッフェルへのリスペクト。「様々な職能の軍団やスタッフを持ち、自分の責任でまとめていることをめざしたい。プロジェクトも協力しながらじっくりつくりこんでいく。最初からあまり決まっていない方がいい」と。これは私と違う。危ういものを感じた。さらに驚くような発言もあった。「正直言って私自身は張弦梁はそれほど面白いと思っていないし魅力的なシステムとも思っていない。その最大の原因はなぜわざわざ引張り上げなければいけないか、ということ。「理工スポーツホール」(1985)も見せてもらい略算したけど、上弦トラスのせいを大きくすれば下弦ケーブルはいらんでしょう」と。なるほど外観(低ライズのアーチ曲面)は似ている「幕張」と「前橋」の違い(必然性)を理解することは彼ほどの熟達者でも難しいのか、とあらためて教えられた次第となった。

いまひとつ。エンジニアの社会的役割について、将来はより積極性が必要だろうとの私の発言に対して「私は逆です。将来も先生と私は行き会う場所が全くないという感じですね。私は今まで建築界全体に非常に熱心に付き合ってきた。しかしそのやり方では妥協が多く、満足出来ない。私はますます職人になりたい。ある意味で閉鎖性が無いと無理だと思う」と反駁してきた。その後生じてくるJSCAとの軋轢の伏線はこの辺りにあったのかもしれない。渡辺さんの理念の強さであろうか。

しかしそうした見解の違いをこえて私に協働をもちかけてくれた2つのプロジェクトがあった。まさに彼のいう専門が異なる者との協働に重きを置く彼のストラテジーなのかと敬服したものだ。
ひとつめは「天城ドーム」(1991)。基本構造の段階で行き詰ったという。私は小さな構造模型を正月明けにSDGへもちこんだ。そこを起点として「東京ドーム」(1988)に代わる超軽量にして日本初の「張弦ストラットドーム」が動き出す。D.ガイガーの通称「ケーブルドーム」とは異なる新しい構造空間は建築家の木島安史、橋本文隆氏にも大変好評であった。しかし何故か渡辺さんの著書「飛躍する~」には紹介されていない。これも謎である。
ふたつめのプロジェクトは「東京国際フォーラム(TIF)」。1990年頃であろうか。基本構想が動き出した当時、私は渡辺さんとNYへ向かった。持参した小模型を前にヴィニオリ事務所で議論が弾んだ。「ポストモダンは初めからさよならだよ」という建築家・ヴェニオリの流麗なスケッチ。広大な事務所の入口近くに置かれたピアノを独り弾いている姿も忘れ難い。結局、私のこの時の唯一の提案は「2本足の間に舟形のデプスを利用したケーブルとアーチを挿入したらどうか。彫刻的で過大な重要のガラス屋根を実現するにはこれしかない」だった。剛腕で力づく、それでいて論理的で美的感性に溢れた渡辺さんならではの仕事ぶり。圧倒的な熱量に敬服しつつ、これは彼が作りたい構造芸術(彫刻)だと納得することにした。時代も目方してくれたと思う。

2002年9月、念願の渡辺さんの自著「飛躍する構造デザイン」が出版された。そしてその翌年の1月29日、出版をテーマに「建築家フォーラム」が開催された。企画したのは近江栄・日大教授。対談の相手役に私が選ばれた。印象的なこんな発言があった。「数年前に構造設計界全般を点検したことがある。一言でいえばひどい状況です。僕はこの事態を改善するために本を出そうと考えた。これから建築設計界に巣立とうとする学生さんに読んで頂きたい、という目的以外に何もありません。単純に“構造デザイン”の重要さ、面白さ、ライフワークにふさわしい仕事だ、ということを若者相手に叫んでいるに過ぎない」「組織には当然個人的に尊敬する人々がいます。しかし日建やArupといった巨大組織と戦うことが楽しいし、建築エンジニア界を席巻している現状を打ち砕こうと闘志が湧いてくる。実に厭な性格ですね」「この本の題名“飛躍する”は、実は“飛躍したい”を願って付けたものです。とにかく、ここ数年かけて私は頑張ります」。そして、この僅か7か月後、あの事件が起きたのだ。

2003年8月26日、使用開始3ヶ月後の朱鷺メッセの連絡デッキが突然落下した。人身事故がなかったのがせめての救いであった。場合によれば北朝鮮からテポドンが飛んできたかも、と想像すると背筋が凍り付いた。「構造設計をしたのは自分だから」と、契約者でもないのに自ら被告に名乗り出た渡辺さんは結局、裁判には勝ったものの、10年間にわたる社会的制約をうけ、膨大なエネルギーを消費した。事故発生当時、秋山宏会長の下で副会長だった私は、職能団体でありながら司法の場での関わりが持てない建築学会の難しさ、むなしさを感じ得なかった。真実は闇の中。ディテールや部材構成に問題があるとも考えられるがそれ以上に何かがある。設計と施工が緊密に連動・相関しなかったその時の不運な状況と判断の誤りが悔やまれてならない。

2013年に損害賠償請求は棄却された。失われた10年という“時間”は取り戻せなかったが、渡辺さんは力をふり絞ってあらたな活動へと進む。1万冊の書籍は38のカテゴリーに分類され、模型群に囲まれた事務所の「SDG Library」(2012.4-)や「渡辺邦夫日曜学校」は全国からの学生でにぎわったという。「5次元の構造設計」の論考はやや難解であるが、物理的なXYZの実空間である3次元の座標軸に加え、歴史に学び未来に提言するという時間軸とIT時代をのりこえる精神軸の設定はいかにも渡辺さんらしい。構造家としてはこうしたメッセージを常に胸に携え、建築に投影する設計者。JSCAやJSDCの活動もこうした思潮を共有して活動すべき、と語っていた。

最後のエピソードは「Z.Hの新国立競技場」である。もう10年前になる2013年9月、渡辺さんは“考える会”のシンポジウムに参加直後、意見を表明した。「コンペの審査は適切かつ適正に行われたのか?(建築技術。2013.12)の投稿理由は槇文彦の提言に対して急に責任を感じたからだという。彼の社会的正義感が為せるアクションに敬服する。そこにはコンペに対する義憤と提案がこめられている。まずは要項の不備であり、外苑敷地も見ずに欠席したロジャースとフォスターの審査は不可能だ。もし審査結果が無効になったら、(まさか白紙撤回とは知らない)再コンペとする。参加資格を見直し、オープンとし、敷地も再考。当然開閉屋根は止めて、現在の「国立」は保存・活用すべきだ。槇先生の問題提起はこれしかない。Z.Hの当選案は当初の予算でできるはずがない。いずれにしろ、この案は破綻するとタカを括っていたのが間違いではないかと。こうした渡辺さんの意見に私も同感だった。
その一方で、アドバイザーの任を果たせなかった自省をこめていくつかのシーンを思い描くことがある。日本がZaha Hadidを選んだ以上、そのイメージを日本の土俵と建築界の中で制御し実現すべきだったし可能なはずだった。その問題点や課題を風化させるわけにはいかない。基本構想段階で渡辺さんが参加できていたらというタラ・レバの夢もみる。

「構造デザインはプロジェクトのプロセスにも責任がある」とは渡辺さんが常々語っていた言葉である。まずは最小の建築要求と超大のスケールを可能とする「構造空間」を創ること。そこから世界に発信し得る、日本の若者が自信を持てるながれ未来が芽生えることが期待されたにちがいない。 「東京国際フォーラム」も「横浜港ターミナル」も「Z.Hの新国立競技場」もArupが基本構想に関わったといわれる。3つめのプロジェクトを実現した時、彼のいう「飛躍したい構造デザイン」を見届けることが出来たかも知れない。異才にして孤高の構造家、渡辺邦夫さんを偲ぶばかりである。

飛躍する構造デザイン https://amzn.asia/d/bykx3yd

Archi-Neering Design AWARD 2022 (第3回AND賞)

選考委員
福島加津也(委員長)(東京都市大学教授/建築家)、陶器浩一(滋賀県立大学教授/構造家)、磯 達雄(建築ジャーナリスト)、堀越英嗣(芝浦工業大学名誉教授/建築家)

表彰式および受賞記念講演会のお知らせ

最優秀賞・優秀賞につきましては、2/23(木)に表彰式および受賞記念講演会を行います

最優秀賞
16    Yamasen Japanese Restaurant ウガンダの地元技術と素材を用いた、ユーカリによる木造建築の実現
優秀賞
05    Stealth brace(ステルスブレース) 開放的な歴史的木造建物への耐震補強
14    一松山 本興寺 本堂建替計画
15    出窓の塔居
24    グラウンドルーフ
入賞
11    ステンレスの新しい表情を持つ”HAGOROMO BENCH”
12    流山市立おおぐろの森中学校 ~サプライチェーンの構築から普遍的な技術の創造まで~
22    千光寺頂上展望台 PEAK ―山頂に浮かぶ水平と螺旋の構造―
23    WASTE PAVILION
26    斜と構

最終選考会

第46回AFフォーラム「E-Defenseの隣に建設されるE-Isolation実大免震試験機」

コーディネーター:和田章
パネリスト:竹内徹(東京工業大学)、吉敷祥一東京工業大学)
日時:2023年03月02日(木)18:00~
お申込み→https://ws.formzu.net/dist/S72982294/
Youtube(お申し込みは不要です):https://youtu.be/n4r41AwAJx0

文明社会は多くの工業製品とこれらの組合せで成立っている。建築も構造も同様に非常に多くの工業製品が組立てられ、人々、社会と建主の要求する性能を発揮させる。建築の性能には色々あるが、「雨が漏れない」、「冷暖房が効く」などは日常的なことなので、建築を使い始めた時にすぐに確認ができる。

地震は数百年に一度のように極めて稀にしか起こらず、「大地震に耐える建築」と言っている設計者や施工者が生きている間に、実際の性能を知ることが出来ないことの方が多い。

大地震時に骨組の損傷を防ぎ、建築を続けて使うことのできる免震構造・制振構造は着実な進歩発展を続けている。ただし、日本には大地震時を想定して、実大の免震部材、制振部材の動力学的性能を試験し把握できる第三者の公的試験施設がなかった。多くの関係者の願いが叶い、本年3月に兵庫県三木市のE-Defenseの隣にE-Isolation(実大免震試験機)が公設民営方式で完成する。

2021年に内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP-2)「国家レジリエンス(防災・減災)の強化」分野において、研究開発課題名「高精度荷重計測機構を有する動的試験機を活用した解析法の開発」が公募された。京都大学、東京工業大学、一般財団法人免震研究推進機構はこれに応募し、厳しい審査を受けて採択され、「大型動的試験機技術の設計・開発と施工を進めると同時に、竣工後には、検証用試験機を共同利用施設として活発な利用を推進する」ことになった。

A-Forumの皆様には、「この試験機の活用」、「免震構造・制振構造の更なる発展」、「次の大地震を乗り越えることのできる社会の構築」など、更なるご活躍に期待しております。  

 趣旨説明:和田 章
 高精度実大動的試験機の概要と仕組:竹内徹
 試験機構成要素の性能確認と試験機の性能:吉敷祥一


KD研 Part2 第11回「サラブレッドからハイブリッドへ―BSSの誕生物語」

トーク:斎藤公男(A-Forum代表/日本大学名誉教授)
日時:2023年03月18日(土)14:00~
お申込み→https://ws.formzu.net/dist/S895819741/
Youtube(お申し込みは不要です): https://youtu.be/1scwra-Hihk

第29回AB研究会 これからを担う若手建築家の活動と実践⑤ 「株式会社 COA 一級建築士事務所/ Chosokabe Okano Architecture」


日時:2023年4月1日(土) 14:00-17:00
会場:オンライン(Zoom)
参加申し込み:https://ws.formzu.net/dist/S49503985/
Youtube(お申し込みは不要です):https://youtu.be/bg5wYYmMzk4

コーディネーター:布野修司+安藤正雄+斉藤公男 プレゼンテーション:岡野道子+長曽我部亮「近作について」
コメンテーター:赤松佳珠子(CAT)
司会:香月真大(SIA一級建築士事務所)

公共事業におけるプロポーザル方式では、行政担当者が外部コンサルや外部委託の運営委員などを募り行政側の要望や予算を入れたうえで、応募要綱・参加条件などを策定する。近年のプロポーザルの提案書を見ると、実現可能で施主の予算通りに施主の要望をかなえる応募要項をみたした落ち着いた案が選ばれることが多い。
そんな中、長野県ではこれからの学びにふさわしい県立学校をつくろうという取り組みとして「県立学校学習空間デザイン検討委員会」を設置し「長野県スクールデザインプロジェクト(NSDプロジェクト)」を立ち上げた。
第29回AB研ではNSDプロジェクト「若槻養護学校施設整備基本計画」プロポーザルにて最適候補者に選定されたCOA 一級建築士事務所の岡野道子氏と長曽我部亮氏をパネリストに、コメンテーターとしてNSDプロジェクトの検討を行った「県立学校学習空間デザイン検討委員会」委員長赤松 佳珠子氏(法政大学デザイン工学部教授 (株)シーラカンスアンドアソシエイツ代表)をお招きする。
岡野と長曽我部は伊東事務所の所員時代から、川口市や今治市、岐阜県、茨木市などで、多くの公共事業に携わり、東北や熊本では「みんなの家」プロジェクトを進めてきた事から、行政との協働にもたけた若手建築家である。ここでいう公共とは行政の建築仕事ではなく、公道や私有地ともに含まれるべきであり、お互いに連携なくして魅力的な街並みは形成不可能である。COAの活動通して、公共と建築家の役割を議論したい。


日本学術会議公開シンポジウム/第 15 回防災学術連携シンポジウム

気候変動がもたらす災害対策・防災研究の新展開

日時:令和5年4月 11 日(火) 13 時~17 時
場所:Zoom ウェビナーによるオンライン開催
主催:日本学術会議 防災減災学術連携委員会、一般社団法人 防災学術連携体
参加申込:https://ws.formzu.net/fgen/S78857005/

関東大震災から 100 年にあたり、地震災害とともに、私たちに迫りくる気候変動に伴う災害に対しても、意識の向上や災害対策を進めていくことが重要である。近年、台風・豪雨災害が毎年発生し、猛暑を含め異常気象による災害リスクも深刻となっており、世界各地でも熱波や洪水・干ばつなど、地球温暖化の進行も反映して災害が頻発している。さらに、国土と社会構造の変化に対応して災害の態様も変化してきている。このような状況も踏まえて災害対策や防災研究を進めていく必要がある。このため、日本学術会議 防災減災学術連携委員会と、62 学協会等で構成する防災学術連携体は、「気候変動がもたらす災害対策・防災研究の新展開」をテーマに公開シンポジウムを開催する。 シンポジウムでは、防災に関わる学協会の専門家が集い、気候変動がもたらす災害リスク、避難・救命救助・復旧活動などの防災対応、国土利用・まちづくりなど災害対策についての最新の研究・取組を共有し、今後の災害対策・防災研究のあり方を議論・展望する有意義な機会としたい。

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神田 順 まちの中の建築スケッチ 「江戸東京博物館—巨大な空中の箱」/住まいマガジンびお

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