第36回AF-Forum

「シドニー・オペラハウスの魅力を語る」

コーディネータ:神田 順
パネリスト:
小栗 新(アラップ東京代表):シドニーオペラハウスにおけるArup の足跡― 動画 “Building The Impossible – The Sydney Opera House” からの抜粋で 資料動画
山本想太郎(建築家、「皆のコンペ論」著者):シドニー・オペラハウスの専門性と総合性 資料動画
斎藤公男(A-Forum代表):シドニー・オペラハウスの魅力を語る―ANDの視点から 動画
ディスカッション:動画

日時:2021年4月15日(木)18:00~20:00、 会場:オンライン(Zoom)

最近読んだ小田部胤久の「美学」の中に、「技術が美しいと呼ばれるのは、技術が技術であることをわれわれが意識していながら、それがわれわれには自然として見える場合である」(カントの『判断力批判』第45節)という言葉を見つけた。シドニーのオペラハウスにもそのような思いがあてはまるのであろうか。シドニーのオペラハウスは、建設中からシドニーの市民はもとより世界の注目を集め、シドニーの顔をして存在感のある名建築と誰もが認める形で登場した。国際コンペでヨーン・ウッソンの設計案が選ばれ1957年に設計が決まったものの、構造的に成立するためにアラップによる提案が1962年になってシェルの設計が決まり、その後も、大ホールをコンサート専門にするなどのインテリアの変更から1966年にウッソンは設計者を辞任するなど、波乱万丈の経緯を有するという意味でも名高い。竣工には予定より10年遅れて1973年、工費も当初の14倍と言われるが、市民の待ち望んだ建築として祝福され、今も多くの人に愛される建築となっている。この建築から我々は何を学ぶことができるか。設計競技(コンペ)の意義、形と構造、魅力の秘密などについて、3人のパネリストに語ってもらう。

参考:OPERA HOUSE ACT ONE by David Messent(1997・ISBN:978-0646322797)

15章からなるノンフィクションで63の写真付き。Bennelong Point が原住民の物語としてスタート。Fort Macquarieが建設された(1821年)。砦としては役に立たないと酷評。1902年には取り壊されて市電操車場に。1915年くらいから音楽関係施設を作る話が生まれた。コンペまでの経緯も綴られる。Eugene Goossens(SNOの指揮者就任1947年)がBennelong Pointにオペラハウスを主張。建築のProfessor Molnarの学生がオペラハウスを設計(1951年)。1955年5月州政府がBennelong Pointをオペラハウスの敷地に決定。当初は、国内としていたものの国際コンペを実施。Eero Saarinenの推薦もあり、デンマークのJorn Utzonが選ばれた。4章では、Utzonについて書かれている。デンマークのハムレット縁のクロンボー城にも触れられている。メディアでは、コストがかさみそうなことも含めてさまざまに議論された。ライトのSensationalismとの批判も寄せられた。一方、多くのサポータから寄付も寄せられた。

5章で、Ove Arupが協力を申し出て、実施設計へと移る。6章では、基金集めのこと、7章(基壇)では、建設契約や、Arupの雇った若いマレーシア人の事故死のこと。8章では地下工事も含むスラブレベルでの委員会と建築家と技術者のやり取り。9章でシェルの設計の話。Nervi, Esquillan, Candelaの複雑な構造はコンペではなかった。技術者と建設会社の調整が大変であるとの委員会の認識。Arupの実現に向けての執念。UtzonもWe are working beautifully togetherと語っている。10章は、シェルの工事の準備段階。11章はシェルの柱の変更。12章水平思考では、施工段階でも構造形式の変更などが記されている。13章は重量と計測。冒頭にCandelaがオペラハウスのシェルは建てること不可能と言ったことが記される。1967年1月最後のシェル部分が建てられ3年2か月の工事の見通しが立った。14章ではタイル。15章はタイル工法におけるArupの試験やUtzonのこだわりが功を奏した。しかし、Utzonはとうとう完成したオペラハウスを見ずに1966年シドニーオペラハウスの建築家を辞しオーストラリアを去った。