第31回 AF-Forum
現代社会における設計行為と法規制 ―イタリアン・セオリーから考える―


コーディネーター:神田順
パネリスト:大倉富美雄(大倉富美雄デザイン事務所代表、特定非営利活動法人日本デザイン協会理事長)、松井健太(東京大学大学院 工学系研究科建築学専攻 学術支援職員)

日時:2020年2月17日(月)18:00~★開始時間が通常と異なります
場所:A-Forum
参加費:2000円(懇親会、資料代)、学生1000円
参加申し込み:こちらのフォーム よりお申し込みください。
*「お問い合わせ内容」に必ず「第31回AF-Forum」とご明記ください。
後援:NPO日本デザイン協会

イタリアン・セオリーとは、岡田温司の同名著書によっているが、現代社会の生き方を考察するイタリア哲学の思考を指している。建築基準法が膨大な規制の集合となって建築設計における知的生産の足かせになっている面が指摘できることは誰も異論のないところと考えるが、なかでも構造設計が創造的行為となり難い現状を、広い視点で論じ、専門家活動としての活性化の道を模索する。

類似の試みは、過去に2回実施されている。最初は、2015年11月9日に、日本デザイン協会とインダストリアルデザイナー協会の共催で、「Turning Pointに差しかかったデザイン・建築・環境について語り合おう」ということで、議論がされた。神田から建築基本法制定を議論する中で、イタリアン・セオリーが現代社会の根本的な問題を解き明かしており、専門家が専門家たりうるための鍵となる旨の発言をした。その後、2019年2月26日に、日本デザイン協会と日本建築家協会関東甲信越支部デザイン部会との共催で、「日本型規制社会と知的生産―イタリアン・セオリーから学ぶもの―」と題して、建築家を中心にトークイベントをもった。

建築基本法制定の議論が建築の構造技術者を中心として始まったこともあり、過去2回の議論を構造技術者も含めたものにしたいということが、今回のフォーラムの趣旨である。パネリストとしては、前2回のコーディネータである大倉富美雄氏と、イタリア現代建築歴史を専門とする松井健太氏をお呼びして、イタリア、建築と政治、法規制の役割などをキーワードとして活発な議論を展開したい。


第31回フォーラムまとめ

配布資料

テーマの趣旨について、コーディネータの神田から説明があった。建築に関する法制度の問題を考えているときに、岡田温司の「イタリアン・セオリー」に出会ったのは6年前である。大倉冨美雄氏とは、イタリアの話をする中で、2015年にインダストリアル・デザイナーを中心とした仲間の議論に加えてもらってプロの役割・意義などを議論する機会をもち、イタリアン・セオリーを紹介した。さらに、議論を深めようということで、昨年2月にはJIA会館で「日本型規制社会と知的生産―イタリアン・セオリーから学ぶもの―」と題して、建築家を中心にトークイベントをもった。これまでにインダストリアル・デザイナーや建築家を中心に議論したことを、さらに構造技術者も交えて考える場としたいことが、今回のフォーラムのねらいである。イタリアン・セオリーと言っても、アガンベン、ネグリ、エスポジトの著書を少し読みかじった程度ではあるが、法が人の生き方まで決めてしまうという問題認識、イタリアのプロの仕事の進め方などからいろいろ学ぶところが多いのではないかと考え、お二人のパネリストをお呼びした。まずは、イタリアでも建築の設計に携わった大倉さんと、イタリア現代建築史を専門としている研究者の松井健太さんから話題提供を頂く。資料としては、神田の日本建築学会大会発表梗概(「イタリアン・セオリー」から考える我が国の建築構造基準、2016年)を趣旨説明にかえて、そして大倉さんのppt、松井さんのpptを付した。さらに別冊で前回のトークイベントの発言記録を大倉さんがまとめたもの参考に配布している。

 大倉の表題は「AIに任せた後に残る職能へ」で、副題が「『日本の濁り』からの脱出」である。まずは、自己紹介。芸大の工芸科図案計画専攻を卒業後、2級建築士を取得、イタリアでは建築事務所で工業意匠の仕事や建築にも従事。帰国後も数々の建築作品を設計しており代表作を紹介。イタリアは個人が自由に振舞うので、大人数で統制のとれた仕事などできない。カンパニリズモ(カンパネラは鐘のこと)に象徴されるように、鐘の音の聞こえる範囲の地域の人間だけが信じられるという世界で、税金の捕捉率も極めて低い。それでいて住みやすく、仕事ができている。

イタリアン・セオリーで考えれば、近代化の中での権力者の押し付けが、個人の生命や日常生活も無視するということがアガンベンの言う「ホモサケル」「生政治」の意味で、自分で生きることで人と人の寄り添いを願うのが、ネグリの「マルチチュード」の意味と理解する。それに対して、日本は、1.忖度度、2.規制順応、3.精度(大倉の造語)の感受、4.経済万能が、いたるところで体質としてしみ込んでいて、個の主体性や生き様を擁護する政治的理念や体制が生まれにくい、専門家の存在を認知しにくい状況を生んでいる。このままでは経済と文化を統合するリーダーも育たない。社会の精度が高まるほど忖度度が増すが、それへの補完が必要。専門家の合意による、AIを活かした自主設計審査組織を育成し、行政と対等に交渉する。専門家に判断を任せる社会構造へ、ということで、著書「クリエイティブ〔アーツ〕コア」の紹介。

松井は、東大建築学科卒業後、学士入学で哲学科に編入、その後、イタリアに留学し戦後のイタリア建築について学位論文を書き、現在は東大の建築史教室に所属と自己紹介の後、「内在と対決―1968年におけるミラノ工科大学建築学部の改革闘争」の表題で発表した。

1. 導入は、「内在(dentro/within)と対決(contro/against)という枠組み」として、戦後の共産党知識人文化を前提に、トロンティの政治論やアウレーリのロッシ解釈にみられる資本主義の中で資本主義に抵抗するという姿勢が指摘された。それが、共同体とは何かということで、エスポジトのコムニタス論に通じるところもある。

2. 「ミラノ工科大学建築学部と1968年」では、既存の建築教育へ対抗する形で社会動向を取り込んだ新しい実験教育「研究グループ」の取り組みが紹介された。学長・大臣vs学部長・学生という対決の構図の中で一時、うまく行くかに見えたのが、ホームレス受入問題から警察の介入を招き、ロッシを含む8人の教授が職務停止という形で結末を迎えた。

3. 「現代の教訓」として、問題を投げかける。現代日本の法問題を教育の現場で議論できるか、対決の回避装置としての法の内部で対決は可能か、専門分化による対決の不在による文化の停滞という三点が提起された。

全体討論に移り、多くの参加者から、さまざまな意見や感想が述べられた。

・イタリアでも建築の専門家は貴族であり、庶民との間に距離がある。
・対決の議論や革命意識は、日本の1968年も同様な状況があったが、イタリアでは、その対決がしっかりと受け継がれている感じであるが、日本では誰も触れない状況になってしまっている。
・江戸時代の新しいものを原則禁止とする文化が、今も日本の忖度や規制順応につながっているのではないか。
・神戸や東日本の震災直後は、建築家も自分の作ったものが人の命を奪うということを強く実感したのに、すぐに残骸を壊してしまって、過去に流してしまっている。
・日本では建築基準法が煮詰まってしまっている。有識者と言っても自ら責任をとるリーダーシップが示されていない。
・がんじがらめだから何もできないというのは、専門家の怠慢である。
・ザハが新国立競技場の2度目のコンペに参加できないなど、専門家を遇する姿勢にも問題があるし、何か問題が生じても風化させないことが大切。

(文責:神田 順)