振動台実験の技術指導ということで、箕輪親宏氏が、トリノ工科大学のタシケント校にJICAシニアボランティアとして赴任されていることがきっかけで、65歳から75歳の構造エンジニア5人で、1週間ウズベキスタンのタシケントを起点にヒヴァ、ブハラ、サマルカンドと訪問する機会をもった。
おりしも、ソ連から独立後から大統領として25年間、国を発展させたイスラム・カリモフが崩じた直後の訪問となった。公共交通機関でのセキュリティが厳しかった程度で、不安を感ずることは一度もなく、気持ちよく旅をすることができた。多くは、3週間の特訓でウズベク語をマスターしたJICAのジュニアボランティアとして現地滞在している人たちのネットワークやその周りの日本語学習中の現地の方々の心のこもった歓迎ぶりに負っている。
シルクロードの東西南北の要の地域で、14世紀ティムール以降の歴史に触れた。ヒヴァの城壁都市と日干し煉瓦の家並み、青いタイルのモスクは印象的であった。2000人が住み、観光がまちを潤わせているようである。子供たちが明るい。ブハラは、聖都としての趣が残り、50mに達する塔の耐震性の話や改修の話も聞いた。俳句風の詩があって、その1つに、「考えたら、言葉に、そして行動せよ」という文句が印象に残っている。サマルカンドは、もっとも有名なシルクロードの一大拠点。中庭を囲む神学校の複数の建物が大きな広場を形成しており、当時の学問の場を想像した。神学と科学を学んだのだと言うが、文系と理系ということのようでもある。また、どこで食べた食事も、野菜が豊富でマイルドな味付け、自然に美味しく食べられた。
タシケントでは、日本人の捕虜たちが中心に建設したオペラハウス「ナボイ劇場」でオペラの観劇もできた。そして、70人の眠る日本人墓地も参詣した。25年の発展の基礎には天然ガスなど鉱物資源の生産があるようだ。韓国との経済交流が大きい印象であるが、それは、第2次大戦時の日本・ソ連による朝鮮人の強制移住の影響もあるとのことである。独立記念公園にある2つの大きな像はともに母の像で、一つは、まるで子を抱くマリアのような像、もう一つは、戦士のわが子を待つ母の像。イスラム教ではあっても緩やかで、国の姿勢が好ましく思えたものである。ウズベキスタン国立大学の理論物理学の日本人教授は、やはり元JICAのシニアボランティアだったと言うが、日本よりも良い環境で研究が出来ていると語っていた。
たまたま中央アジア考古学の加藤九祚翁がウズベキスタンの発掘現場で亡くなった報に接した。アムダリア川沿いの古代ギリシア都市からの歴史に触れる機会を与えられた。いままでに閉ざしていた世界が、少し開いたような貴重な旅であった。JICAで活躍している若い人たちが、日本に戻っても、活躍できるような社会に日本がならなくてはいけないと改めて思ったものである。
本シリーズ第1回目、2回目では、新国立競技場建築プロジェクト、そして東京オリンピック関連施設を例にとり、デザインビルドあるいは設計施工一括方式を巡る諸問題について議論した。本シリーズを通じた目的は、建築生産方式(=プロジェクト方式=発注方式)の多様化の必要性と課題を確認し、デザイン、エンジニアリング、コンストラクションの創造的協働の未来像を展望することにあるが、設計と施工の分離を前提とした伝統的な専業の枠組みが侵されていることがまず議論の焦点となった。シリーズ第3回では、「日本の住宅設計生産と建築家」をタイトルに、町場における建築家の役割をめぐって議論したが、アーキテクトの役割が再確認される一方、その未来についての展望は必ずしも明らかではなく、住宅芸術論、「最後の砦としての住宅設計」論、アーキテクト・ビルダー論、地域住宅工房論の帰趨ははっきりしない。むしろ、浮かび上がった大きな問題は現場の劣化、建築技能の衰退である。そこで今回は、木造住宅の設計と施工の問題に焦点を絞って、建築設計と建築技能の未来について考えたい。
コーディネーター:安藤正雄+布野修司+斎藤公男
(a) 木造住宅設計の問題:直下率と安全性 村上淳史(村上木構造デザイン室)
(b) 工務店と大工育成問題:蟹沢宏剛(芝浦工業大学)
日時:2017年1月13日(金)17:30〜19:00
場所:A-Forum
会費:3000円
共催:日本建築学会『建築討論』