「想定外」はお粗末な言い訳?


  東日本大震災の際、その被害の甚大さに政府や電力会社などが、「想定外」という言葉を頻繁に使った。このことが震災直後の国民の不信をかい、「想定外」は責任回避のための常套句、単なるお粗末ないい訳との声が上がった。ドキュメンタリー作家の柳田邦男はその著書の中で、専門家が「想定外」の問題をこれまでのように「そこまではとても予測できない」とか「それまで想定に入れていたら設計なんてできなくなる」といった思考の枠組みの中で考えている限り、自然災害克服の道はないと厳しく断じた。こうした風潮の中で、専門家の間では「最早想定外という言葉は使えない」という意識が流れた。

  しかし私達が専門分野としている建築、とりわけ構造設計の分野でも、想定する領域の境界を数値化した仕組みの中で設計しているのが現実であり、その現実をそう簡単には変えられそうにない。何か新しい不都合が起こるたびに、国がいち早く法規を整備しようとするのも、この仕組みを補完するためのようにも見える。一方ひとたび仕組みが作られると、人も組織もその内側の領域については熱心にその仕組みを完成させようとするが、外側の領域に対しては無関心になる。だからと言って仕組みの境界を広げ、外側の領域を内側に取り込んだとしても、まだなおその外側には取り込めなかった膨大な領域が存在する。とどのつまりは想定の壁を取り除くことは不可能のように思える。

  ならば想定外のリスク管理はどのようにあるべきなのか。リスクが巨大化する現代では、想定外リスクを未然に防止する重責を専門家だけが担うことは困難なのではないだろうか。たとえ科学技術を強化して優れた学説や技術論を唱えても、それが社会通念として受け入れられなければ、実用性の少ないひとつの理論にしか過ぎない。想定外の新たなリスクに対応することは、専門分野だけに留まらず社会全体の問題であることは言うまでもない。土木工学の専門家である京都大学の小林潔司教授は、「新たなリスクに対する市民的対応を可能とするためには、専門家と非専門家との間におけるリスクに関する健全なコミュニケーションを確保する」ことが必要と主張する。さらにそのコミュニケーションが有効なものになるために不可欠なことは、多様な関係者が決定に参加できるような環境が整備されることと、入手しうるすべての情報が開示され共有されることであると言う。

  専門家であっても、複雑化した現代におけるリスクの全体像を把握することは容易でない。また災害が起こる確立や規模を正しく予見することも困難である。私達が想定外のことを想定する能力は、現代社会が持っている科学技術や情報の範囲の中でしかない。科学技術の英知を集めたとしても想定できる領域は限られる。大切なことは、社会が想定外リスクを正しく認識できるように、専門家は現代科学技術が知る限界を明らかにして、そのリスクに対する対応方法を社会全体が共有することではないだろうか。さもなければ「想定外」が「専門家のお粗末な言い訳」から脱して、社会の安心を得ることはできないと考える。

(K.K)

参考文献
1)柳田邦男:「想定外」か?-問われる日本人の想像力、文芸春秋、2011年5月号
2)小林潔司:想定外リスクと計画理念、土木計画学研究発表会・講演集 VOL44 2011.11
 


第八回フォーラム報告(金田勝徳)

最初に(財)ベターリビング 住宅・建築評価センター構造判定部長 小駒勲氏から「構造設計者は変わったのか?」と題して、この10年間の構造設計者の変化についてコメントを頂いた。
小駒氏は事件当時、耐震強度を偽装した構造計算書を確認審査時に見逃したとして、確認審査機関の大臣指定が取り消された(株)イーホームズに在籍されていた。そのイーホームズで事件発覚直前に姉歯元一級建築士と出会った時のいきさつや、事件直後の慌しい事後処理を行う一方で、緊迫した国交省の立ち入り検査や検察の事情聴取が連日行われ、混乱した審査機関の現場の状況が報告された…

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第9回フォーラム開催

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