日本を飛翔させた競技場
東京の空を西から新宿方面に向かう。都庁を中心に並び立つ超高層群と密集した建物の風景の中で広がる明治神宮の森。そこに隣接する代々木競 技場の姿は印象的である。ユニークな大屋根の造形はいうまでもないが、2つのことが強く目をひく。ひとつは2本の主塔をもつ第一体育館が吊橋そのものの原理で成り立っていること。並んで建つ第二体育館も形態は違うがよく似た構造システムだということが分かる。いまひとつは都市との関係。
渦巻き型ともいわれる2つの建物とプロムナード、広場とが一体となって原宿と渋谷の人の流れを導いている。プロムナードは東西に走るが、ここには隠れた軸がある。主競技場の巴型の芯を通ってこの東西軸に直交する軸を引くと、北隣の明治神宮の森を走り抜けて本殿を貫く。夕陽が沈む西の軸線上には富士の姿があるのだろうか。
国立代々木競技場の設計が本格的にはじまったのは1962年1月。竣工すべき日まで、あと 2年と8ヶ月前のことである。巨大でかつ画期的な空間を設計し、建設するには残された時間は信じがたく短かった。
敗戦から15年、オリンピック開催という国家的事業を成功させることにより、再び国際社会に復帰できるという希望に日本人ひとりひとりが胸躍らせていたこの頃、「世界に誇れる建築をつくろう」という思いは熱かった。
建築家、構造家の恊働関係
まず建築と構造の2つのチームによる基本構想のイメージづくりがスタートする。各自が持ち寄る小さな模型の数々。都市と景観、機能と形態、構造と 施工とを背景とした議論が深まっていく。そうしたプロセスの中から、しだい に建築的な〝姿〞を見せはじめたのは渦 巻状のサスペンション案である。
都市と建築に対して、「開かれてはいるが閉じた空間」「室内の興奮を包みながら閉鎖的とならないスポーツ空間」といったコンセプトが具体的に造形化され、空間構成のシステムははっきりと構造化されていく。
タコマ・ナローズ橋の落橋(1940)の衝撃を乗り越え、建築家に吊構造(サスペンション・ルーフ)への気運を高めたものは1958年に開催されたブラッセル万国博における多様な造形的可能性であった。こうした状況の中にあっても、当時のサスペンション構造は、構造設計の手法も施工法も蓄積がなく、まったくの手探り状況であった。今日では親しみ深い大変形や非線形といった構造解析も、コンピュータもいまだ登場しないこの時代では無理であり、ひたすら手まわしや電動の計算機が主役であった。この時の設計や施工はどんな様子だったのか。「短剣ひとつでライオンをつかまえに行くような、そんな悲壮感をもちながら設計に立ち向かっていた」と川口衛は述懐している。短剣とはおそらくさまざまな模型実験と構造計画的な洞察と思われる。
「坪井さんと丹下さんが議論をしている様子を見ていると、どちらが建築家でどちらが構造家だかわからない。丹下さんがしゃべっているのは力の流れや構造的な提案なのだ。」と、かつて丹下研究室の大谷幸夫が洩らしたことがある。相互に支配的でも隷属的でもないバランスのとれた協働関係が目に浮かぶ。日本の近代建築の中で、竣工後50年を経て今なおデザインの新鮮さを失わず、普遍的な魅力を与え続けているものは、この建築をおいてほかに見あたらない。
新しい建築のみかた・最新版より抜粋(MS)
第七回フォーラム開催のお知らせ
テーマ:「科学と工学」
コーディネータ:和田章(東京工業大学名誉教授)
パネリスト: 未定
日時:2015年4月23日(木) 18:00-20:00
場所:A-Forum レモンパートⅡビル5階
フォーラム終了後に懇親会
会費:2000円
詳細につきましては後日公開させていただきます。
お申し込みは
→http://www.a-forum.info/contact/form.html
『お問い合わせ内容』に必ず第7回フォーラム参加希望と明記してください。