免震重要棟
2011年東北地方太平洋沖地震の際に、福島第一原子力発電所内の「免震重要棟」がマスメディアによって繰り返しアナウンスされ、その存在が広く全国に知られることとなった。「免震」と「重要」が並んだ施設名を耳にして、「重要な建物」=「免震構造」という認識を持った人も少なくないと思われる。実際に発電所内のほぼ中央に位置した免震重要棟は、緊急時対策の陣頭指揮が執られる場所として用意されていた。
震災の日からほぼ一ヶ月間、福島第一原発では吉田昌郎所長をはじめとした現地職員たちが、放射能被曝の恐怖と闘いながらこの免震重要棟に籠城し、不眠不休で様々な事態に対応することとなった。文字通り免震重要棟が災害対策の重要な司令塔となったのである。それを可能にしたのは原発施設内のすべての電源が失われた中で、唯一免震重要棟内の通信専用回線機能が保持され、東電本店とのテレビ会議システムも動き続けられていたことにあった。その時の様子をコラムニストの船橋洋一は「免震重要棟の存在はかけがえのないものだった。免震重要棟がなければ、全くお手上げで全滅だったところが、首の皮一枚でつながったと、吉田昌郎福島第一原発所長と横田一麿保安院現地所長は口をそろえる」と記述している1)。
ここで言われている「全滅」は、そのことによって東北地方のみならず、首都圏までに及ぶ日本全国の1/3の地域が放射能に汚染され、日本人の半分が避難場所を求めてさまよい、全国がパニックに陥ることを意味していた。少し大げさなもの言いかも知れないが、免震構造が日本を救ったとも言えそうな話である。その免震重要棟が建設され使用開始されたのは、震災からわずか8ヶ月前の2010年7月のことだった。今回の原発事故はいくつかの偶然が重なって最悪の事態を免れたと言われているが、このこともその偶然の中のひとつであったように思われる。
一方震災時に岩手県沿岸地域の後方にあって、自らも被災しながら沿岸被災地の支援に街を挙げて取り組んできた遠野市の状況も、学ぶべき示唆に富んでいる。3.11地震によって震度5強の地震動を受けた遠野市庁舎は、1階の柱がせん断破壊をきたし内部への立ち入りできない状態となった。そのため震災直後の市災害対策本部は、庁舎前の屋外駐車場に設けられたテント小屋に設置され、灯りは蝋燭、情報源は携帯ラジオ一台という状況であった。そうした情報不足による混乱の中で、市民は津波被災者からの直接の求めに応じて大量のおにぎりを握り、燃料や毛布を集めて沿岸地域に送り続けた。しかし電源が回復し情報が得られようになるまで、全国から寄せられた支援物資を適切な場所に送り届けられなかったことや、苦労して準備した被災者の受け入れ態勢が空振りに終わった様子が、つい先日のテレビ番組でも放映された。もちろん遠野市庁舎は免震構造ではなかった。
建築のすべてを免震構造にすべきと言うつもりはない。しかしこれから設計しようとする建築が被災した後の様子を的確に想像し、そのことが社会にどのような影響を与えるかを建築主に説明する、ないしは説明できるのは設計者をおいて他にない。生半可なことでできることではないが、そうした視点を持つことが、今構造設計者に求められているもう一つの使命ではないだろうか。
船橋洋一著「カウントダウン・メルトダウン」2012.12.30 文芸春秋刊
(KK)