手仕事とマス・プロダクションのこと
昨年、建築家の大倉冨美男氏に声をかけられたのがきっかけで、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動のことを考える機会があった。19世紀末に試みられた、マスプロへの抵抗としての手仕事に囲まれた生活は、金持ちの道楽的な批判もあったようであるが、そこから学ぶことも多い。21世紀になって、はるかに強力な大量生産が、多くの手仕事や職人技を、生活の中心から小さな趣味の世界に追いやってしまっている。ものづくりとは何か、技術者のはしくれとして考えさせられる。
大量生産は、効率化による生産性向上で利潤をもたらす。その結果、さらに大量な消費をあおることで経済成長にも寄与するというサイクルが、実は、生活の豊かさとか心地よさとは別物で、自分の求める生き方でなく、マスプロに合わせた生活を強いられることになっている。人の決めたルールに従って生きるのは楽だが虚しい。自分で生き方を決めるのは大変ではあるがワクワクする。
構造設計が、構造計算ソフトでできてしまったり、法適合のための書類作りが必要以上に膨大な、画一化のための仕事になっていたりすると、力のつり合いを考え、材料の選択をする手作りの心が見えなくなる。テレビに、繰り返し現れて、今がお買い得、と叫ばれると、つい買ってしまう。時代に遅れないようにというあせる気持ちは、戦後の経済成長とともにあり、GDPを押し上げた。
大量生産はあたりまえになり、そのこと自体への疑問はもはやない。しかし、大量生産が飽きられることも事実であり、飽きられたら、何か手仕事的な工夫して、新製品を生み出すのが、成功する会社の極意になっている。これは、「第二の産業分水嶺」(ピオリ/セーブル著)によれば、flexible specializationと呼ばれている。そして、トヨタの車もインスタントラーメンも同じである。
建築家の出江寛氏が言っていたが、自然素材は時間が経つにつれ味がでるが、工業製品は、新築時点から、性能も見かけも悪くなる一方だと。自然素材は、手仕事でないと使えないが、どこにあったとか、誰が手を加えたとか、見ているだけでも飽きない。
大量生産された工業製品の便利さから逃れることはありえないし、その経済効果の恩恵も捨てられないが、それでは心が満たされない。同時に、手仕事による味や、それを気持ちよく思う感性を大切にすることから、生活の豊かさが見えてくる。建築の質や価値を手仕事の部分に見出して、語り広めることで活路を開きたい。
(JK)