「言語・真理・理性」ということ
このところ、けっこう哲学書に出会う。「確率の出現」(イアン・ハッキング著広田すみれ他訳2013.12)という本も17世紀頃の確率という概念が出現したいきさつを書いているものの、どうも哲学風である。なかなか、慣れない言葉がしっくり呑み込めないままに読み進んだ、その最終章にみつけたのが、このフレーズである。著者がそのようなタイトルの論考(1992)を書いている。他にもそれに近い言い回しは、いろいろあったとの指摘もある。これを、自分なりに読み代えると「基準・被害・設計」となる。あるいは「法律・実態・判断」でも良い。そもそも確率は将来をどう判断するかということにとって必要な概念である。言語は記述し、誰もが理解できるようにしたもので、たとえば設計基準の荷重の大きさの記述などは、それに相当するし、さらにそれを絶対的な約束事にしているのが法律の規定である。本当はどうかというのは、そう簡単にはわからない。しかし、設計する者は、なんらかの想定をして判断することになる。これは、理性に基づく行為である。ここの理性はreasonの訳である。
言語哲学も言語がどのくらい実態を表しているのか、じっくり考えると、なかなか興味深いものである。17世紀と言えば、ニュートンの時代。その後のカントの思索には確率の概念が乏しい。力学ですべてが説明できるわけではないことが、はっきりしたのは20世紀である。確率が、今も工学者の間でさえ十分な認知を得ていないのは、不確実なものをどう考えるかを十分に考えていないということなのだと思う。出現の当時から帰納論的に知識(決定論的)は高級科学、臆見(確率的)は、低級科学というような見方が存在していたようで、その点では、今もそのような目で見て、近づこうとしない人が多いのかもしれない。しかし、ひたすら言語に従って、真理も理性も自らが考えないと専門家としての存在価値がなくなってしまう。
(JK)