防災と減災
「欲望に応じて生活し防災対策は程々に、起きてしまう大災害は諦める」から「日常の欲望を抑制し、防災を考えた国土計画・まち作りに励み、丈夫な建築を建てて、大災害の発生を極力防止する」の間に、我々専門家、政府、市民にはいろいろな選択がある。
東日本大震災後、津波対策については、レベル1には高潮対策を含め防潮堤などで耐え、レベル2には津波がまちに襲うことを受け入れ、人々が無事に逃げられれば良いとし、海の底になる建築物などの財産は失われることを覚悟する減災の考え方が出された。それまで、防災といっていたことに反省し、減災といわざるを得なくなったとも言える。
実は、建築構造物の耐震設計の仕組みは、戦前の規則から戦後の基準、1981年の新耐震設計法から2000年の限界耐力計算法も、防災ではなく減災の考え方で構成されている。数十年の間には必ず襲うような中小地震動には「機能維持」、「財産価値保全」、「人命保護」の3つの要求を満たそうとするが、数百年に一度襲われる大地震では構造物の倒壊が防止できれば良いとし、損傷を許容し人命を護れば良いとしている。
このとき、機能はもちろん失われ、建築物の取り壊しも覚悟している。問題はこの取り壊し費用の捻出にある。地震後に家やオフィスを失い路頭に迷っていて、十分な保険金を持たない人々がこれを支払うことは難しい。阪神淡路大震災では取り壊しに公的な予算が使われたが、壊れた私有財産を税金によって片付けることが正しい方法とはいえない。これが行き過ぎると、財政に過大な負担をかけるだけでなく、常日頃から災害を起こさせないようにと、安全なまち、安心して住める家々を作ろうとする意欲までなくさせる恐れもある。これは大津波によって大量にできる瓦礫についても同様で、被災前の所有者が独力で瓦礫処理をすべきという人はいない。
この問題が、2010年秋と2011年2月に2度の地震を受けたクライストチャーチで起こっている。この地震で倒壊した建物は富山県の語学留学生が亡くなられたビルを含め2棟であった。その他の多くの建物は損傷を受けたものの倒壊には至らず、減災が成り立ったといえる。遠く離れた日本から見ていると、倒壊した2棟を除けば、何事もなかったように思えるが、同じ耐震規準で設計された市内の他の建物が無損傷であったはずはない。傾いたホテルなど、多くの建築物に損傷があった。
最近まで知らなかったが、この地震から3年半が過ぎ、町の中心部の損傷を受けた建築物は次々に1700棟も取り壊されて更地になっている。これをもって、減災がこれからの正しい方策とは言えない。始めに述べた津波に襲われるまちの減災対策にも同様の問題がある。両者とも、人々の命を助けても、残ったまちや村には暮らせない。100年に一度、500年に一度、たとえ1000年に一度でも、このようなことを繰り返す方法は我々専門家の望む方法ではない。
人口が少なく大きな産業のない小さな地区で災害が起きた場合は、その他の地区に住む多くの人たちからの援助や義援金があり、政府の負担も小さいため、復旧復興は可能である。ただ、東京や大阪、名古屋のような大都市で災害が起き、多くの建物や道路、鉄道、ライフライン、下水施設などが使えなくなったとき、たとえ人々の命を護ったとしても、この甚大な災害規模はその他の地区に住む人たちのからの支援では足りず、税金や保険では対応不能であり、復旧復興は非常に難しくなる。
レジリエントな社会を作ろうとするなら、大都市への過度な集中を防止し全国土を有効に使うこと、少なくとも大都市の建築・土木構造は地震後にも機能維持が可能なように圧倒的な耐震性を持たせることが必須である。ここでは議論しなかったが、地震の後には必ず起こる大火を防止するため、燃えない都市を作ることが重ねて重要である。
(AW)