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A-Forum e-mail magazine no.84 (10-05-2021)

私達にできることをやろう

先月('21 年 4 月)の終わりに、横浜市内の元町に建設中だった学校の体育館・レストランなどを集約した複合施設の竣工式が行われた。工事は 2017 年 7 月に着工後、様々な事情で予定より約 1 年 2 か月遅れて、竣工がこの 4 月にずれ込んでいた。そのため、竣工前の1 年間は、新型コロナウィルス感染に脅かされながらの工事となった。竣工式会場には、建物が建つ地盤の高低差が 14mに及ぶ難工事を無事故・無災害で成し遂げた安堵感と、やっと仮設体育館で凌ぐ毎日から解放される高揚感に満ちた笑顔が並んでいた。

思い起こせば、工事関係者の新年会を横浜中華街で行ったのが、昨年(2020 年)2月4日の夜だった。その中華街近くの横浜港に、大型クルーズ船が沢山のコロナ感染者を乗せて入港したのは、新年会前日の2月3 日だった。その会では、すぐ近くに停泊しているクルーズ船の船室に幽閉されている乗客たちの、計り知れない焦燥感や不安感に想いを馳せながら も、その話題に奇妙な盛り上がりを見せていた。当時はコロナ禍が、こんなにも身近に迫り、とめどなく人々の命を奪うことになるとは想像していなかった。

記録によれば、まず PCR 検査結果で陰性と判定された乗客が順次下船し、外国人乗客は自国からのチャーター機で帰国して、最後に乗客、乗員全員が下船したのは 3 月 1 日であった。その時、政府高官から「やっと終わった」との声が聞こえたという。31ヶ国の乗客・乗員約 3,500人の中から多くの感染者と死者を出しながらも、孤立した巨大客船に一人も残されていないことを見届けたのだから、そう思うのも無理はない。しかしそれから約一月後の4 月 7 日に、政府から全国 7 都道府県に緊急事態宣言が発出された。言うまでもなく、その時「終わった」のではなく、それから「始まった」のだった。

この「緊急事態宣言」という聞き慣れない言葉には、不穏な胸騒ぎを感じる。「宣言」は国民の命を守ることを旗印にして、外出や集団での飲食を抑制し、仕事時間の制限や人の隔離もする。比較的少ない被害に抑え込んだ国々では、携帯電話の情報や市中に巡らせた監視カメラ網を駆使して人の動きを把握し、特定した感染者を隔離しているという。こうした「基本的人権」や「自由」に対する制限を伴う政府主導の感染拡大防止対策を、一概に否定することはできないだろう。

とはいえ、コロナ禍が長引き、繰り返えされる感染の波がそのたびに高くなるにつれて、より強力な国家統制を求める声が多くなっていることに、注意が必要ではないか。緊急度が次第に高まったためなのか、それとも人々がこの「宣言」に慣れてしまったためなのかは定かではない。私たちが、自分自身で立ち向かわなければならないこの種の課題に、国の命令がなければ対処法が分からないことも確かだろう。しかし、こうした宣言は、情報の透明性と確かなエビデンスを前提とした特例であるべきで、永続的であってはならないことは、80 年前の日本の状況を想い起こすまでもない。

冒頭に触れた学校の竣工式では、祝宴の代わりに、在校生 20 名を超えるビッグバンドによるジャズの熱演を聴かせて頂いた。コロナ下にも工事を止めずに働き続けた関係者に感謝を込めてのライブ演奏であった。そこでは、驚いたことに出演した高校生たちは、全員マスクをつけたまま熱唱し、トランペット、サキソフォンを吹き、ピアノ、ドラムスを演奏していた。不自由な練習環境をにめげることなく、見事なジャズを聴かせてくれた若者たちの未来環境が安心なものであるために、私たちに一体何ができるのだろうか。

こうしたことを考える時、'20.3.18 にドイツのメルケル首相から発せられた、コロナ感染拡大防止に向けた国民へのメッセージが思い起こされる。メルケル首相は、原稿を読むのではなく、テレビカメラの向こうにいる国民と正対したまま、厳しい制約の中で日常を支え続ける国民に深い敬意と謝意を表し、リーダーである自分たちの責任を明確に示している。そしてメッセージの最後で、「犠牲者が何人出るのか。どれだけ多くの愛する人たちを亡くすことになるのか、この状況は深刻であり、まだ見通しが立っていません。一人一人がどれだけきちんと規則を守って実行に移すかということにも事態が左右されるということです(訳:林フーゼル美佳子)」と、困難な状況を克服するために誰もができることの実行を求めている。

一人一人が有意な規則を守り、実行にしなければならないことは、対コロナ禍にだけの課題でなく、今人類が脅かされている地球上のすべての危機に当てはまることのように思える。

(K.K)


第20回 AB(アーキテクト/ビルダー「建築の設計と生産」)研究会
これからを担う若手建築家の活動と実践 01
「PERSIMMON HILLS architects」

コーディネーター:布野修司+安藤正雄+斎藤公男

日時:2021年5月22日(土)15:00〜18:00
会場:オンライン(Zoom)

趣旨説明:香月真大
プレゼンテーション:「PERSIMMON HILLS architects の活動と実践」柿木佑介+廣岡周平
ディスカッション:「建築家が生産や流通にいかに関わるのか」コメンテーター:種田元晴+香月真大+浅古陽介

参加申し込み:こちらのフォーム よりお申し込みください。
*「お問い合わせ内容」に必ず「第20回AB研究会参加希望」とご明記ください。

建築家は、パワービルダーやハウスメーカーのように住宅の生産や流通に関われるだろうか?

新型コロナの影響で2020年度の新設住宅着工戸数は73万戸となった。1990年代には167万戸という時期もあったが、既に新築から改修への移行期にある。

一般の住宅の発注者、すなわちお施主さんは、まずハウスメーカーやパワービルダーのコマーシャルを手掛かりにする。景観を作るのは建築家ではなく、経済効率、量産化、広告に長けたビルダーやメーカーである。建築家は、インフォーマルな関係を手掛かりとして設計の機会を得て、奇をてらった建築をつくったり、建築雑誌への掲載や建築賞の受賞を目標として、建築家の仲間内の評価を得ようとする。しかし、公共事業の作られ方や、生産や流通を考えて活動も行うべきではないだろうか。

建築家の活動と実践を通して、建築生産や都市形成にいかに関わっていくべきかを議論していきたい。

(香月真大)。


第37回AF-Forum

「ロバートソンの思い出を語る」

誰にでも、尊敬する人と憧れの人がいると思う。私の場合は尊敬する立派な先生は10人以上おられるが、憧れの人はLeslie Robertson唯一である。1970年代に日本にこられたときに講演を聴いたときに始めてお会いしたと思うが、US Steelビルのハット構造のお話をゼスチャーたっぷり楽しそうに話してくださった。この頃には、New YorkのWorld Trade Centerの工事も進んでいたと思う。1980年に初めてNew Yorkに行ったときに事務所を訪ね、そのご何度も訪問し、日本に来られたときにもお会いすることができた。残念なことに、今年の2月11日に92歳でご逝去されてしまった。本当に悲しいし、もし天国に行けたら、是非お会いしたい。
ロバートソンさんに、もっともっと懇意にされた方々がアメリカにも日本にもたくさんおられる。これらの人にネットを通して集まっていただき、6月12日(土曜日)の午後1時から、ロバートソンの思い出を語る会を開くことにしました。ネット配信いたしますので、多くの方に試聴していただきたいと思います。(和田章)
Leslie E.ロバートソンアソシエイツ

モデレーター:中田捷夫・和田 章
パネリスト:斎藤公男、池田一郎、木村 功、竹内 徹、土橋 徹、中島秀雄、迫田丈志、堀田祐介、島田博志、石倉 敦

日時:2021年6月12日(土)13:00~15:00
会場:オンライン(Zoom)
参加申し込み:こちらのフォーム よりお申し込みください。
*「お問い合わせ内容」に必ず「第37回AFフォーラム参加希望」と明記ください。


パネリストとロバートソン氏

斎藤公男 (A-Forum代表、日本大学名誉教授)
1938年 生/1963年 日本大学大学院修了(坪井善勝研究室)/1991年 日本大学建築学科教授/2007年 日本建築学会会長(第50代)
1972年 池田一郎氏の案内でS.H.C.R.(シアトル)事務所訪問。ロバートソン氏の作品を訪ねて米国を旅行。/ 1993年 ロバートソン氏と共に第3回松井源吾賞を受賞。

池田一郎
1967年 日本大学理工学部建築学科修士課程卒業、同年 米国州立ワシントン大学工学部入学/ 1969年 米国州立ワシントン大学卒業(Master of Science in Civil Engineering)、同年 Skilling Helle Christiansen Roberson社(現:Magnusson Klemencic Associates)へ入社(~2008退職)
ロバートソンが SHCRシアトル 事務所(1967 -1982頃)のパートナーの一人でいた時に入社。

木村 功 (元新日本製鐵(現日本製鉄)・日鉄エンジニアリング)
1979年東京工業大学大学院修了、同年新日本製鐵入社
1984年I. M. Pei氏、Robertson氏設計の中国銀行香港支店プロジェクトに従事

竹内 徹 (東京工業大学教授)
1984年 東京工業大学大学院修了、同年新日本製鐵入社/1990-1992 Ove Arup & Partners London 派遣勤務/2003-現在 東京工業大学 建築学専攻 助教授、教授
1994-1997 L.E.Robertson氏に指導を受けながら香港・中環中心設計に従事

土橋 徹 (森ビル株式会社)
1959年生/1984年森ビル株式会社入社
森ビルは1990年、中国上海市浦東地区の中でも、アジアの国際金融センターと目されている陸家嘴金融貿易中心区に世界最高水準の一大拠点の開発を開始。着工後、アジア経済危機で工事一時中断後、ロバートソン氏に参画頂き合理的な構造計画を取込み、さらなる高層化を決定(高さ492M:当時世界第1位)、2008年竣工させることが出来ました。(上海環球金融中心 )

中島秀雄 (小山工業高等専門学校建築学科教授)
1988年から2年間LERAで修業しました。当時は香港の中国銀行が建設中で、Puerta de Europa の計画が始まり自重による水平方向の変形をプレストレスで引き戻す検討などをやりながら、設計者とのコミュニケーションのとりかたなど仕事をまとめる(get things done)ための心構えのようなものを教わりました。教員になってからもいろいろアドバイスをいただき、まさに人生の先生のような存在でした。

迫田丈志(堀江建築工学研究所)
不動建設より27歳からの2年間(’98~’00)LERAにて研修し、米国・ドイツ・中国などにおけるプロジェクトに携わりました。I.M.Pei氏との打合せやWestern Ontario 大学での風洞実験等、貴重な経験をさせて頂きました。夏の別荘でのパーティー、Lesご自慢のスポーツカーでのドライブ、第一子のNYでの出生にお力添え頂き、師であり優しい父でした。

堀田祐介 (三菱地所設計構造設計部)
2004年 三菱地所設計勤務入社
2012年10月より1年間 NYオフィスに企業留学生として滞在。2012年12月を以てロバートソン氏がNY事務所から引退したため最後の日本人留学生となります。研修途中にロバートソンの部屋はなくなりましたが、引き続き事務所にはおられ、解析プログラムが隆盛の中で応力図や荷重伝達経路を手書きによって図化する大切さ、規模の大小を問わず手計算で概略設計をする大切さを教わりました。

島田博志 (大成建設設計本部原子力設計部副部長)
1988年 東北大学大学院修了、同年大成建設㈱入社、大成建設では設計本部にて、大空間施設、生産系施設、原子力施設他の構造設計に従事/2018-現在 同社国際設計部にて海外PJの構造設計に従事 1994-1995年 NYのLERA事務所にてRobertson氏のもとで海外研修

石倉 敦 (清水建設株式会社設計本部)
2000年 清水建設入社/2008年~2019年までは主に海外案件の構造設計に従事。
2010年1月~2011年1月までLERAに企業留学。留学中は主にLotte World Towerの基本設計に携わり、ロバートソンより進行性崩壊の考え方などについて直接指導を受けた。

中田捷夫
1940年大阪府堺市生れ、80歳、1966年 日本大学大学院修士課程修了、坪井善勝研究室に奉職、1990年坪井善勝博士の逝去に伴い、㈱中田捷夫研究室設立、現在に至る
技術士(建設部門)、工学博士(応用弾性学)、岡本太郎記念財団理事、東京理科大嘱託教授(3年間)など

和田 章
1946年岡山県生まれ、1968年東京工業大学卒業、1970年同大学院修了、1970年-1981年日建設計、1982年-2011年東京工業大学助教授・教授、2011年-2013年日本建築学会会長


第36回AF-Forum

「シドニー・オペラハウスの魅力を語る」

コーディネータ:神田 順
パネリスト:
小栗 新(アラップ東京代表):シドニーオペラハウスにおけるArup の足跡― 動画 “Building The Impossible – The Sydney Opera House” からの抜粋で 資料動画
山本想太郎(建築家、「皆のコンペ論」著者):シドニー・オペラハウスの専門性と総合性 資料動画
斎藤公男(A-Forum代表):シドニー・オペラハウスの魅力を語る―ANDの視点から 動画
ディスカッション:動画

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神田 順 まちの中の建築スケッチ 「東京文化会館—コンサートホールと広場—」/住まいマガジンびお