A-Forum e-mail magazine no.84 (05-04-2021)

世界貿易センタービルの崩壊から20年

[はじめに]

西暦2001年は21世紀の始まりの年であると同時に新しい千年紀の始まりの年でもあった。長い歴史の中、人々は明るい未来を信じ、平和で豊かな生活を目指して科学技術を発展させてきた。それと同時に、悲惨なことが多いと分かっていながら、人類はたくさんの戦争をしてきた。残念なことではあるが、科学技術は戦争に強い国づくりを目的に進んで来たとも言える。人間が決めただけの節目の年、2001年の9月11日朝に、同時多発テロは起きた。人類は平和を願うより、戦うために地球上に生まれてきたのかと考えさせられる。

18世紀にヨーロッパで産業革命は始まり、20世紀末に限界を迎えたように思える文明社会は石炭・石油の化石燃料、原子力をエネルギー源として成立っている。鉄鉱石から鋼を生産する過程、超高層ビルを建設するために多くの建設資材を揚重する過程、完成したビルを定常的に使う際にも照明、空調、エレベーターの運転などすべてに、エネルギーが必要である。旅客機は離陸時100トンを越えるケロシンを給油し、時速数百キロで1万mの高さを飛ぶ。この度の事件は、多量のエネルギー消費で成立つ現代文明の2つの象徴、超高層建築へのジェット旅客機の故意の衝突であり、その結果として世界貿易センタービルは崩壊した。

地球が宇宙の一点に誕生してから今までの数十億年を一年のスケールにのせると、産業革命以降の2百数十年は除夜の鐘の最後の一突きの時間に相当するという。元旦から除夜の鐘の百七突きまでの長い間にふりそそぎ、蓄積された太陽のエネルギーを、現代の我々は瞬間的に消費しているといえる。もちろん旅客機を使った自爆テロは許されないことである。しかし、神様は、人間の手が届かないほど進んでしまった科学技術、大量のエネルギー消費、人間のおごりに警告を告げているのかも知れない。

2011年3月11日に東日本大震災が起き、チェルノブイリ、スリーマイルアイランドに続き、3度目の原子力発電所の爆発が起きた。10年が過ぎても、廃炉は大変な仕事であり、放射能汚染された地域には戻れない人が多くおられる。科学技術の一端を進めてきた一人として、悩みは絶えない。

[世界貿易センター]

世界貿易センターは国際貿易に関わる民間会社、公共機関の活動を一つに集め、ニューヨーク・マンハッタン島の南部に建設された建築群の総称である。ここには2棟の110階建ての超高層ビル、広場があり、広場の周りに8階建てから22階建ての4棟のビルがある。道路を隔てたところの47階建てのビルを含めて合計7棟のビルにより成立っている。地下は6階まである。着工は1966年、竣工は1973年である。建築設計はMinoru Yamasaki、構造設計はシアトルに事務所があったSkilling, Helle, Christiansen and Robertsonであり、最終的にLeslie Robertsonが設計をまとめた。建設中には、日本から多くの建築関係者が見学に行き、我が国の超高層建築の設計、構造技術などに大きな影響を与えた建築である。竣工してから約30年間、文明社会の象徴として、多くの人々の憧れの建築であったといえる。

[9月11日]

午前8時45分にアメリカン航空11便〔ボーイング767〕がハイジャックされ、北棟の94階から99階の間に北側からほぼ水平に激突した。18分後、ユナイテッド航空175便〔ボーイング767〕が南棟の78階から84階の間の南面の東寄りに斜めに激突した。午前9時50分に南棟の衝突階より上部が傾き、その直後破壊が上層から下層に向けて進行し、全体が崩壊した。午前10時28分に、北棟の上部のアンテナが沈み込むように見えたあと、破壊が上層から下層に進行し、全体が崩壊した。この崩壊により、この区域のビルだけでなく、さらにその周辺の建物にも被害が及んだ。

[崩壊原因]

米国政府の調査報告書では、ジェット燃料は衝突後数分で燃え尽きたが、下階に流れた燃料と火により、多層階に同時火災が発生し、これらの階にあった家具、什器、書類などの長時間に及ぶ火災が構造物の崩壊の直接原因になったとしている。第一に衝突による外周柱およびコアー柱の破壊、同時に床構造の物理的破壊、第二に山形鋼を弦材、丸鋼を斜材とするトラス梁が膨張し、次にカテナリー状に大きくたわみ、崩落を始めた。第三にコアー柱、外周柱ともに、高温下におかれ、ヤング係数、降伏強度が低下していった。第四に、床スラブによる水平補剛で安定性を保っていた柱が、床スラブの破壊によってその補剛を失い座屈長が長くなり、鉛直荷重の支持力を失った。第五に衝突階の上層部が数メートル落下し、これに抵抗できない下階が順次、進行崩壊を起こした。前提条件として、この2つの超高層建築には頂部の6層にアウトリガートラスと呼ばれる剛強なトラス構造が各方向に4構面組み込まれており、外周架構とコアー架構の一体性を高めていた。推察ではあるが、外周架構が非常に密なラーメン構造を形成していたこと、およびこのアウトリガートラスの効果により、衝突直後に生じた部分破壊から全体破壊までの時間を延ばしたと思われる。道を隔てたところにあるWTC7は、建物の低層階に発電装置、燃料、変電設備を有しており、ビル火災と同時にこれらが燃え出したこと、火災が発生してから約7時間の間、消火活動が行われなかったことなどが重なり、最終的に全体が倒壊した。発電施設を囲む架構は大空間になっており、上層部の柱を大きな梁が支える構造になっており、長時間高温にさらされたこの架構が支持力を失い、全体の崩壊につながったといわれている。

[指摘]

上記の報告書では次のように幾つかの重要な指摘を行っている。

・鋼構造のロバストネスとリダンダンシーが重要
・非常誘導灯の設置された避難階段
・テナントに対する緊急避難訓練の実施
・避難経路の周囲に設置された衝撃抵抗壁
・突風や衝撃、構造物の変形に抵抗できる耐火被覆
・避難階段を建物の中心に集めず分散させる
・スプリンクラーに対し余裕のある給水能力
・衝撃、火災を受けたときの鋼構造物の接後部の性能を確認
・火災時の構造物の挙動について、構造体の温度上昇、応答を予測する設計法の開発
・構造技術者と耐火技術者の両者へ互いの技術教育
・火災時の延焼の予測手法の開発
・燃焼時の部材の性能に関するデータベースの整備
・非常時に移動困難になった人、消防隊へのエレベータの使用許可
・鋼構造の火災に関する消防隊員の教育
・現場の緊急時の判断を適切にするため、消防隊員と工学的な専門家の連携作業を援助

[追悼]
Robertson がいつも身に付けていたPeace Mark

構造設計を行ったLeslie E. Robertsonが2021年2月11日に92歳でご逝去された。80年代の終わりころ都内で昼食をご一緒したとき、なぜ30代の若さでこの大きな設計を纏めたのかと聞いたことがある。バレリーナは5歳で目が出なければ遅い、構造設計者は30代で目が出なければ遅い、建築家は50を過ぎてでも遅くないと言われた。

世界貿易センタービルの崩落は辛かったと思う。Robertsonは、米国の報告書において旅客機が激突しても壊れない建築を作るべきとは言っていない。都市に旅客機が飛び込んでこない平和な社会を作ること、少なくともこのようなことの起きない航空管制を行うべきであるといっている。

(建築雑誌2002年9月号に投稿した拙稿をもとに記述)
(AW)

第36回AF-Forum
「シドニー・オペラハウスの魅力を語る」

コーディネータ:神田 順
パネリスト:
小栗 新(アラップ東京代表):シドニーオペラハウスにおけるArupの足跡(仮題)
山本想太郎(建築家):設計競技の視点から(「みんなのコンペ論」著者)(仮題)
斎藤公男(A-Forum代表):アーキニアリング・デザインの視点から(仮題)

日時:2021年4月15日(木)18:00~20:00
会場:オンライン(Zoom)
参加申し込み:こちらのフォーム よりお申し込みください。
*「お問い合わせ内容」に必ず「第36回AFフォーラム参加希望」と明記ください。


シドニーのオペラハウスは、建設中からシドニーの市民はもとより世界の注目を集め、シドニーの顔をして存在感のある名建築と誰もが認める形で登場した。国際コンペでヨーン・ウッソンの設計案が選ばれ1957年に設計が決まったものの、構造的に成立するためにアラップによる提案が1962年になってシェルの設計が決まり、その後も、大ホールをコンサート専門にするなどのインテリアの変更から1966年にウッソンは設計者を辞任するなど、波乱万丈の経緯を有するという意味でも名高い。竣工には予定より10年遅れて1973年、工費も当初の14倍と言われるが、市民の待ち望んだ建築として祝福され、今も多くの人に愛される建築となっている。この建築から我々は何を学ぶことができるか。設計競技(コンペ)の意義、形と構造、魅力の秘密などについて、3人のパネリストに語ってもらう。

参考:OPERA HOUSE ACT ONE by David Messent(1997・ISBN:978-0646322797)

15章からなるノンフィクションで63の写真付き。Bennelong Point が原住民の物語としてスタート。Fort Macquarieが建設された(1821年)。砦としては役に立たないと酷評。1902年には取り壊されて市電操車場に。1915年くらいから音楽関係施設を作る話が生まれた。コンペまでの経緯も綴られる。Eugene Goossens(SNOの指揮者就任1947年)がBennelong Pointにオペラハウスを主張。建築のProfessor Molnarの学生がオペラハウスを設計(1951年)。1955年5月州政府がBennelong Pointをオペラハウスの敷地に決定。当初は、国内としていたものの国際コンペを実施。Eero Saarinenの推薦もあり、デンマークのJorn Utzonが選ばれた。4章では、Utzonについて書かれている。デンマークのハムレット縁のクロンボー城にも触れられている。メディアでは、コストがかさみそうなことも含めてさまざまに議論された。ライトのSensationalismとの批判も寄せられた。一方、多くのサポータから寄付も寄せられた。

5章で、Ove Arupが協力を申し出て、実施設計へと移る。6章では、基金集めのこと、7章(基壇)では、建設契約や、Arupの雇った若いマレーシア人の事故死のこと。8章では地下工事も含むスラブレベルでの委員会と建築家と技術者のやり取り。9章でシェルの設計の話。Nervi, Esquillan, Candelaの複雑な構造はコンペではなかった。技術者と建設会社の調整が大変であるとの委員会の認識。Arupの実現に向けての執念。UtzonもWe are working beautifully togetherと語っている。10章は、シェルの工事の準備段階。11章はシェルの柱の変更。12章水平思考では、施工段階でも構造形式の変更などが記されている。13章は重量と計測。冒頭にCandelaがオペラハウスのシェルは建てること不可能と言ったことが記される。1967年1月最後のシェル部分が建てられ3年2か月の工事の見通しが立った。14章ではタイル。15章はタイル工法におけるArupの試験やUtzonのこだわりが功を奏した。しかし、Utzonはとうとう完成したオペラハウスを見ずに1966年シドニーオペラハウスの建築家を辞しオーストラリアを去った。


防災学術連携体が2021年4月1日より一般社団法人となりました。

東日本大震災を契機に、日本学術会議を要として震災に関わる学会の集まる連携活動を始め、2016年1月に自然災害全般を対象にこの活動範囲を広げ「防災学術連携体」を結成しました。自然災害が激甚化するなかで、学会間の情報共有、政府・自治体・関係機関との連携、学術界からの情報発信など、これまで多くの実績をあげてきました。
一方で、設立から5年が経ち、活動が本格化するにつれて、任意団体であることの限界が指摘されるようになりました。政府や関連機関との連携においてだけでなく、社会的信用の確立においても法人格を持つ必要性が高まっております。
2020年暮れから幹事会を中心に協議を重ね、今後の運営の負担が大きくならないように考慮して「一般社団法人(非営利型)」を申請することになり、手続きを進めてきました。この基本的な形は「法人運営を担う理事会と事務局があり、その上に学協会が緩やかなネットワーク組織を形成して主体的に活動すること」が望ましいと考え、これからも、正会員の防災連携委員、学識会員などから選出された幹事会が、防災学術連携体の事業の執行にかかわり、また、理事会に必要な意見を述べることができるようにしました。
このたび正式に認可され、一般社団法人防災学術連携体が2021年4月1日に発足しました。これまでの会員学会の皆様、特任会員の皆様、幹事の皆様のご努力に感謝すると同時に、今後の活動へのご協力とご支援をよろしくお願いいたします。
詳細はこちら
神田 順 「イタリアン・セオリー」から学ぶこと「個性や能力を十分に活かす社会をつくるためには」 Bulletin 2021 春号
まちの中の建築スケッチ 「明治学院大学記念館—明治時代のネオゴシック建築—」/住まいマガジンびお