ブラジリア


  「ブラジル」の歴史の始まりは、1500年のポルトガルによるブラジル発見に遡る。サルヴァドール(1985、世界遺産)、サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロの諸都市の興隆を経て1822年、ブラジルはポルトガルから独立。それから100年、共和制の樹立(17世紀末)をもってしてもできなかった首都の移転と建設が実現に向けて動く兆しをみせたのは独立100周年の1922年のこと。ブラジリアの地に「礎石」が埋めこまれた。困難な遷都への道を支えたものは大規模な外国からの移民と、モデルニズモの文化的潮流といわれる。
   「もし大統領に選ばれたら、プラナルト・セントラル高原に首都を移転するか」と問われたクビチッキが大統領選に勝利したのが1955年。ル・コルビジェとも接触した彼が“国際”ではなく“国内コンクール”に踏み切り、オスカー・ニーマイヤー(当時48歳)等の審査団によってルシオ・コスタの“ジダール・パルケ”構想を最優秀案として公表したのが1957年3月であった。応募案は26。最終審査に残った応募案に対する講評もオープンにされた。それがブラジルのモダニズム建築、すなわち国際的にも確たる評価を受けていたモダニズム建築に対するブラジル人としての国民意識(自信と情熱)の表れとも理解される。
  新都市構想は驚くべきスピードで実行され、3年後の1960年、とにかく遷都を迎える。「十字架のしるし」「ジェット機」「弓矢」「翼を広げた鳥人」といったイメージが未来への限りない発展を人々に予感させた。しかし現実は厳しく、軍事クーデター(1964)もあって民政復帰(1985)までの20年間、ニーマイヤーも故国を追われた。
   モデルニズモ都市の容貌はコスタの期待を裏切るものとなった。世界的なデザインの流行にのり遅れまい、もっと違ったダイナミックな都市があるはずだという憧れや疑問。この都市を、それが何であるかというよりも、別の何かにしたいと考える建築家と都市デザイナーの存在と圧力が高まっていく。しかしこのことが逆に、ブラジリアを本来計画されたような方向に保護しなければという社会的努力を喚起したと考えられる。コスタとニーマイヤーの「ブラジリア」を何としてもとり戻さなければいけない。

   地方の不動産業界の関心を都市保全に向かわせる絶対的圧力は、国際的な知名度の活用だという戦略を考えたのはオリヴィエラ知事であった。ついに1987年、イコモスの勧告を受けた形で、保存のための規範として4つのスケールの構成軸と3つの保護ゾーンを導入した政令を条件として世界遺産への道が拓ける。開都して30年にも満たない都市が世界遺産として登録されたのは、「過去と未来の監視者」の国際的認知でもあった。つまりこの世界遺産は20世紀のモダニズム理論の代表作としての都市と建築に与えられたものではない。ブラジル人の国民意識が求めた快適な都市がモダニズム都市と合致したと見るべきだ。近年のそうした見方は当時の私はもちろん、世界的な評価とは逆のものであるといえよう。
   ‘保存’という観点からブラジリアは先例のないひとつの状況をつくりだした。他の多くの世界遺産と違って‘形態’としての都市景観を保護するのではなく、都市の歴史的現代性を保護するという視点が欠かせない。時代を重ねながら、永遠に生きる都市―ブラジリア。誕生からすでに半世紀の今日、連邦地区には250万人が住むという。この都市を構想したコスタと、独自の建築群を描き続けたニーマイヤーの世界をじっくり見てみたい。
(鉄鋼技術 2015年4月号『ブラジル~ペルーの建築・都市と自然・歴史を訪ねて』より抜粋)

(MS)


第8回フォーラム開催のおしらせ

テーマ:耐震偽装事件発覚から10年
-事件は日本の構造設計界に何をもたらしたのか-



2005年11月、不当に改ざんされた構造計算書によって設計された集合住宅やホテルの存在が明るみにされた。1人の構造設計者が引き起こしたこの事件によって、日本の社会が建築物の安全性をめぐって大混乱に陥った。それまで建築基準法を遵守していれば建築は安全と考えていた社会は、寄って立つべき法基準そのものを誤魔化した違法建築の出現に驚き憤怒し、不安に脅えた。その結果、構造設計者はコンクリートのわずかなヘアークラックを見つけては動揺する集合住宅住民の対応に追われ、その一方で、自分達が行ってきたこれまでの仕事の見直しに、緊迫した日々を送ることとなった。

当然のことながら、この事件の前後で構造設計界の様相も一変した。当時、構造設計実務者は、性能規定化、建築確認・検査の民間開放等を主な改正点とした2000年改正基準法にも慣れはじめて、それなりに自由な構造設計を手元に引き寄せつつあることを感じていた。その矢先にこの事件が起こり、構造設計に向ける社会の目が一挙に厳しくなった。それを受けて、事件の再発防止のための法の厳格化を目指した法改正が2007年に施行され、一挙に構造設計を取り巻く環境がこれまでになく不自由になった。またこの法の施行によって建築確認制度の運用に支障をきたし、そのことがその年の建設着工床面積を激減させ、「建基法不況」と呼ばれる社会問題にまで発展した。
事件から間もなく10年が過ぎようとしている。今回のA-Forumでは早くも風化しようとしているこの事件を改めて振り返り、構造設計がその後のどのように変わり、さらに次に目指すべきことは何かを考えてみたい。


コーディネータ:
金田勝徳(構造設計者 構造計画プラス・ワン代表)
パネリスト:
五條渉 (建築研究所 構造研究グループ長)
小駒勲 (ベターリビング 適判部長)
西尾啓一(西尾啓一構造コンサルタンティング代表、元構造計画研究所構造 設計部長)


日時:2015年6月26日(金) 17:00-19:00 ★開始時刻が前回までと異なります。ご注意ください。
場所:A-Forum レモンパートⅡビル5階
フォーラム終了後に懇親会
会費:2000円

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http://www.a-forum.info/contact/form.html
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シンポジウムのおしらせ
「CTBUH Tokyo Symposium」(5/22)

A-Forumご使用方法のおしらせ
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